2018年8月5日日曜日

「夏休み」と「自殺」。そして「居場所」。


 夏休みの後半。それと九月一日には、子供の自殺が増える

ということで、去年もその事についてふれた・・・。

 今年も、すでに夏休みに入って二週間ほどが過ぎている。

 子供たちの自殺が増える事は今年も避けられない事だろう

と思うけれど、少しでもなんとかならないものだろうか。


 その子が自殺するのは、運命なのでしょう。どうにもなら

ないことなのでしょう。でも、どうにかならないか?


 彼ら、彼女らが自殺する直近の理由は、大抵「居場所が無

い」ということだろうと思う。

 そういう想いに至るさまざまな要因があってそうなるわけ

だけれど、最終的には「居場所が無い」という想いにかられ

て自ら命を絶つのでしょう。

 無いのだろうなぁ、「居場所」が・・・。可哀相になぁ。


 今の私は、“オヤジ” です。小中高生のような「居場所が

無い」という想いを持つ可能性は低い。

 それなりに、いろんな人と関わり、いろんな場所で、いろ

んな経験をしてきたので、「ここがダメでも、他の所やほか

の関係が有る」と思えるから、「死のう」とは想いにくいの

だけれど、でもそれは “可能性が低い” だけで、ゼロではな

い。

 苦しい状況が続いて、そこから抜け出す方法が見いだせな

ければ、“オヤジ” であっても「死のうかな・・」とは思っ

てしまう。現に、中年の自殺は多い。


 「居場所が無い」ということを、「彼ら、彼女らの自殺の

理由だろう」と書いたけれど、何も「彼ら、彼女ら」に限っ

た事ではない。自殺する者は、居場所を失くしたが故に自殺

するのです。

 なぜそうなってしまうかというと、そもそも社会(人間関

係)の中に “居場所” を持とうとするからですね。


 社会というものは、ひとりひとりの〈エゴ〉の集合だとい

うことは、今までも書いて来ました。と同時に、ひとりひと

りの〈エゴ〉は、社会と関わる事によって作られるとも書い

来ました。それはつまり、社会の中は数限りない〈エゴ〉

葛藤と闘争の場だということです。

 そんな中に自分の居場所を持とうとすること自体が、大き

な間違いなんですね。


 誰も彼もが、自分の居場所を確保する為に、自分の正当性

を主張し、他の者を仲間に引き込んでそれを堅固なものにし

ょうとし、合い入れないと見做した者を排除して、自分の立

場をより強固にしようとします。

 なぜそうなるかというと、そもそも社会の中に自分の居場

所を持とうとすることに無理があるからです。


 社会というものは、人々の〈エゴ〉によって出来ていま

す。〈エゴ〉というものは、“不安” と “不安からくる欲望”

によって出来ていますから、そんなところに安定した居場所

なんか作れないのです。

 表面上、安定している様に見えていても、その土台が〈エ

ゴ〉である限りは、永久に安定はありません。

 ですから、自分の縄張りや仲間を拡げ、自分とは違う人間

を設定して排除することで、「自分は正しい側だ」という安

心を得ようとせずにはいられないのです。それに終りは無い

と気付けずに・・・。


 社会  自分が暮らす世界  の中に “自分の居場所” を

作ろうとすることは、川の堤防の内側に家を建てるようなも

のです。ちょっと雨が降れば流されてしまいます。

 自分の居場所は、自分の中に作るべきなのです。いえ、自

分の中にもともとあって、自分の中にしか無いものなので

す。


 《 わたしが、わたしのマイホーム 》


 という言葉をだいぶん前に載せましたが、自分の居場所は

自分の中にしか無い。


 わたしたちは、世の中と関わり合う中で、あれやこれやと

様々な事を考え続けます。

 その考えの流れの中で、「流されまい」として何かにつか

まろうとしますが、“世の中の考え” も “自分の考え” も、

「流れ」なのです。確固としたものは何もないし、人々は自

分がつかまる処を得ようと、他の者の手を払います。

 そんなところで自分の居場所を得ようとする事は、悲劇で

すが、みんな「そうするしかない」と思っているのです

ね・・・。


 居場所はあるんですよ。自分の中に。


 世の中の考え・価値観・約束事・・・、そんなものとは関

係なく、生きている・存在している自分が居ることは間違い

ようの無い事実なんです。


 あなたが、サハラ砂漠の真ん中に運ばれて、たった一人置

きざりにされても、すぐにあなたの存在が無くなるわけでは

ないですよね?

 世の中と完全に無関係な状態になっても、自分は存在して

いる(それでいつまで生きられるかはさておき・・・)。

 世の中との関わり以前に、さまざまな思考の条件付けより

前に、自分は存在している。自分は居る。

 「自分は居る。」のなら、そこには “自分の居場所” があ

るはずでしょう。実際、「有る」のです。


 そのことを忘れて(そう思い込まされて)、世の中に “自

分の居場所” を求めてしまう・・・。それが、人間の不幸の

始まりです。
 

 振り返ってみればいいんです。いや、ちょっと首を振って

確かめ直してみればいいんです。

 世の中(他の人たち  家族も含めた)とは無関係に、自

分が在る。その自分がほんとうの “自分の居場所” です。

「自分が自分の居場所」なんて、当たり前すぎることです。

なんの疑いもない事です。それに気付けないようになってい

るんです。〈アタマ〉が悪さをするせいで・・・。


 誰が何を言おうが、どんな態度をとろうが、どんな仕打ち

をしようが、たとえ明日が来る前に殺されようが、それであ

ればなおさら、そんな世界に “自分の居場所” を求めるべき

ではありません。
 

 世の中の自分は、困った事に振り回されているかもしれな

い。心無い人に苦しめられているかもしれない。殺されよう

としているかもしれない。でも、どんな瞬間であっても、

「今・ここに・自分が在る」。それは、“自分の居場所” が

あるということでしょう?


 どんな境遇にあっても、
 

 《 自分はいつも “自分” という居場所にある 




 そんな風に考えたところで、世の中のエゴから自分の生命

さえ守れないかもしれない。

 けれど、「自分が居るべき場所に居ること」が、本当に

「生きること」ではないでしょうか。



 夏休みが中盤になってくると、そんなことを考える。



 「小学生にも伝わる言葉で、同じことを語れたらなぁ」と

思うけれどね・・・。






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