2022年2月19日土曜日

迷い続けて、そのままに



 この世には、悟った人というものがいるようです。

 私も悟りたいと思って来た。いまも少し思っているけれ

ど、悟っても悟らなくても大した違いはないと最近は思って

いる。まぁ、悟った方が気楽で面白いだろうとは思う。その

一方で、世の中はつまらないものになり果てるだろうから、

プラスマイナス・ゼロじゃなかろうかという気もする。


 悟ろうが悟るまいが、生きて死ぬだけで、そこには何の違

いも無いだろう。

 人としての生活にジタバタすることにも違いは無い。気持

ちがゆったりしてるか、右往左往してるかの違いがあるだ

け。まぁそれは大きな違いかもしれないが、それだけのこと

だと言えなくもない。


 悟る縁にある人は悟るし、悟る縁に無い人は悟らない。そ

れは当人が選べることではないので、どちらであれ、それが

その人としての在り方なのでしようがないし、それでいい。

いいとしか言いようがない。だって「そう在る」ことを否定

した所で何にもならない。「“そう在ること” を否定するとい

う在り方」になるだけの話だから、永遠のいたちごっこで疲

れるだけのことだろう。

 とはいえ、悟った方が生きている喜びは深いだろうから、

私の好みとしてはそっちの方がいい。そういう縁にあればい

いなと思う。


 「悟っても悟らなくても大した違いはないから、人それぞ

れどっちでもいいし、どうにかできるものでもない」という

明らめは、 “悟り” なんだろうか?


 こういう話を始めると、行ったり来たりの堂々巡りで、た

だのムダ話のようになってしまうが、そもそも生きてること

はそういうことだとも言える。

 養老孟司先生が「現代人は効率第一。それならさっさとお

墓に入るのが一番効率がいいけどね」と言う。人生は非効率

でムダなものだというのが本当のところだから、「寄り道み

たいな気持ちで生きればいいんじゃないか?」とも仰る。そ

ういう達観があると、肩の力が抜けて気分が良くなることだ

ろう。


 私たちは煩悩というものを持って生きているけれど、その

悩は私たちの命が受け入れているからこそ存在する。命が

け入れているのだから、文句を言ったり無くしたりする必

もないのかもしれない。

 煩悩は有っても無くても、まぁ構わない・・・。

 そんな自由無礙な気持ちがいいように思う。


 一休さんが言ってるね。「釈迦という いたずら者が世に

出でて 多くの人を惑わすかな」。

 でもまぁ、惑わされるのもご縁なので、その迷いの道草を

笑ってしまえるのなら有難いね。いまのところ有難いです。



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