2023年1月7日土曜日

気の向くまま



 ブログを始めて、明後日でもう丸六年になる。時々、書く

きっかけが無くなってひと月ぐらい書かなくなることもある

し、集中して書き続けることもある。どちらにせよ気の向く

ままなので、書かれていることも気の向くままだ。

 その「気の向くまま」の「気の向き」が、なぜその時々に

そうなるのかは知る由も無い。自分の意志ではないので、少

なくとも、その「気」は自分のアタマ(エゴ・自意識)が関

知できない部分か、どこか、アタマとは関係のないところか

ら現れるのかもしれない。


 「気」というものは世界に満ちていて、世界を巡ってい

る。それを「気配」と言う。「気」の「配置」だ。「気」が

それぞれの人にその時々に分けられたものを「気分」と言

う。その「気」の配置をわたしたちは自由にできない。


 例えば、低気圧が近付いて来たり、月齢による月の引力の

変化によって体調が変わったりすることや、人には聞こえな

い低周波や電磁波が人の脳に影響を与えることを、私たちは

意識できないし、逃れることもできない。もちろん、雨に濡

れるとか、強い日差しにさらされるというような、意識でき

ることもある。そして、人から人へと及ばされる精神的な影

響も統御できない。

 そのような、この世界の有形・無形のエネルギー(人が知

り得ないものもあるだろう)の動き・働きが、「気」だろ

う。その「気」がそれぞれの人に「分けられ」、「配置」さ

れ、それぞれの人を動かしてゆく。それどころか、わたした

ちの身体やこの世界のあらゆる物自体が「気」が「配置」さ

れてこのような形をとっていると言える。


 「気の向くまま」


 すべての人、すべての生き物、すべての物は、「気の向く

まま」に動いている。「気の向くまま」にそこに現れてい

る。



 もう40年ぐらい前だと思うけど、三浦雅士氏(編集者・

文芸評論家)が『私という現象』という本を書いた。

 岸田秀先生の『ものぐさ精神分析』などの出版に関わって

いた人だから、タイトルで内容の察しはついたので中身は見

ていない、けれど、タイトルだけで十分に価値がある。 

 「私」というものは「現象」だ。だって、せいぜい100

ほど存在するだけだし、その意識(思考・感情)も身体も

日々変化しているのだから。


 このブログを書いている私(というもの)も「現象」だ。

 この世界の「気」が、この場所に、いまこのように「配

置」され、ブログを書くという「向き」に「気」が動いてい

る。


 「私」という現象が、「ブログを書く」という現象に携わ

っている。

 それがなぜなのか? なにになるのか?

 「現象」である「私」には知りようがない。ただ、なかな

か面白いと感じられるのは「気分」がイイ。


 「気の向くままに任せよう」という「気分」に預かれるこ

とは、しあわせなことだろう。


 「気」の向くままに生み出されて、「気」の向くままに死

んで行く。

 「気運」という言葉もあるけど、「気」に運ばれて行くこ

とを受け入れ、さらに面白がれるなら、そんなありがたいこ

とはないと思うが、さて、そう感じるときの私の「気」とは

一体 “何” なんだろうか?




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