2023年1月22日日曜日

寒波到来



 次の水曜日あたりに強烈な寒波が来るらしい。神戸でも-

5C° ぐらいにまでなるとか。

 育てている花の一部が枯れるかもしれないのが少し心配だ

けど、まぁしようがない。冬は寒くなるものだ。


 植物は、寒波が来るといったって動いて逃げるわけにはい

かない。ダウンジャケットを着るわけにもいかない。ただ、

自身のあるがままに、その場所に在る。

 生きられるのなら生きて行く。生きられなければそれま

で。植物がそれで文句を言うのを聞いたことがない。


 人間と植物の決定的な違いは、植物はウロチョロしないこ

と、そして文句を言わないこと。その姿(在り方)にこれま

で何度考えさせられてきたことか。植物は私の師匠である。


 いうまでもなく、植物は地球の生命の基本です。ごくごく

一部の例外を除いて、まず植物が無ければ他の生物は存在で

きない。地球は「植物ありき」の惑星です。なので植物を師

匠と仰ぐのは決して変な事ではないでしょう。


 ウロチョロしない。文句を言わない。その姿から考えてみ

ると、人は、ウロチョロしたり、ウロチョロさせられたりす

るから、文句を言いたくなるんじゃないか?

 いまここで(動物だからその場からまったく動かないとい

うわけにはいかないけど)、いまここを尊ばずに、「他にい

いことないか?」と動き回ってしまうことで、かえって文句

が出て来るんじゃないのか?


 もちろん、危険や不快さに耐えられずに動くのは自然なこ

とだし、社会という出来の悪いストーリーの中では逃げ出す

方が当然という場面はいくらでもある。人間のバカさ加減に

付き合ってられなくなったりするのは健全です。けれども、

植物の姿から教えられるのは、動くことは人(動物)の業で

あるということ。「動かないことの方が本来的なのでは」と

いうこと。

 とはいえ、そんなこといったって動く存在であるわたした

ちは動かずにいられない。ならば人として、動かないような

在り方とはどういうものか?


 それは自ら動かないようにすることではないか?


 自ら動くときには、そこには目的意識がある。なんらかの

計算がある。何かを得ようとしている。つまりアタマが強く

関与している。なので、思惑が外れれば文句が出る。

 だから、思惑を持たずに動く。いや、動かされて行くに任

せる。


 どうせわけが分かって生きているんじゃないし、自由意志

なんて「自分でそうしているつもり」なだけで、動かされて

いるというのが本当だし、それならアタマであれこれ計算せ

ずに、動かされて行く自分を見ている方が良い。


 「はぁ~。こういうことが起きるんだ」「自分はこんな風

に動くんだ」と、出来事と自分を見ていれば、少なくとも意

識の中心は動いていない。右往左往させられることはない。

 何百年もその場所で立ち続けている木だって、風が吹けば

枝を揺らすし、冬になれば葉を落とす。けれど、幹と根はそ

こにあり続けたことで大きくなった。

 木の幹と根が動かないように、人の根本にある意識も動か

ないのだけれど、表面の意識が右往左往するものだからそこ

に気付けなくなっている。


 寒波が来て、熱波が来て、大きな木も枯れるかもしれな

い。

 ウザい奴や強欲な奴が来て、わたしたちの心を傷めつける

かもしれない。もしかしたら命を奪われるかもしれない。で

も、それがさだめならしかたがない。

 けれど、木の根が大地に根付いているように、わたしたち

の意識の根本はこの世界と繋がっている。


 植物は黙って生かされ、黙って死なされてゆく。それは、

表面上の出来事だと知っているかのよう。たとえ百年、千年

生きようと、自分たちは大地の一部として、少しの間このよ

うな姿を現しているだけなんだと・・・。


 不安に怯え、揺れ動いて右往左往する意識を世界にあずけ

てしまえば、道端の草や深山の老木と変わらず、わたしたち

も落ち着いていられるのではないか?


 天気予報を知った私のアタマは、動かされるままにこんな

話を綴ったのでした。



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