2023年1月4日水曜日

アタマを下げれば



 一昨日初詣に行ってきた。神戸に出雲大社の分祀があるの

でそこへ参拝した。

 だいぶ前に〈 アタマが選ぼうとしない神こそ、「神」と呼

ぶにふさわしいだろう 〉と書いたことがある(『科学という

宗教について』2021/7 )。それについていつか書こうと思

いながらそのままになっていたので、今回はその話です。


 〈 アタマが選ぼうとしない神 〉とは何か? どういうこと

か?

 アタマが選ぶということは、アタマの在り方を根本的には

否定しないものであり、アタマの理解の範疇にあるというこ

とであって、いわば、アタマの中に収まってしまうものとい

うことになる。けれど、わたしたちのちっぽけなアタマに

「神」が収まるなんておかしいですよね。「神」はそんなも

のはるかに越えた存在であるはずだし、アタマの理解なんか

及ばず、こちらの都合に合わせたりしてくれるものではな

く、こちらが「神」の都合に合わせるのが当然というような

ものでしょう。

 神さまに、こちらの都合に合わせてもらおう(願いを叶え

てもらおう)ということは、「神さまの方針は間違ってる」

というようなことです。下手に出てみせているけれど、本当

は上から目線です。そういう考えの人間が選ぶ「神」は、〈 

アタマが選ぶ神 〉です。そもそも、わたしたちが「神」を選

時点でおかしいでしょ。なんで人間に「神」が選べるので

すか? 

 世界には無数の「神」があって、「自分の信じる神が本当

の神だ」みたいな考えの人間も多いのでしょうが、「神」は

アタマの理解を越えているはずだから、そんなこと人間に判

断できるはずないじゃないですか。「神」は選べない。

「神」は分けられない。


 アタマ(思考)は世界を分けなければ理解できない。「理

解」という言葉(字)が表すように、理(ことわり)を解い

て(バラして)しまうことで、分かった気になるのがアタマ

です。だから「神」さえ分けようとする。選ぶ。

 (量子力学なんて研究して、この世界を理解しようとして

いる人間は、分けることの泥沼に底の底まで潜っているよう

なものですが、いずれ分けることの無意味さに気が付いて、

「神」を語り始めるのでしょう)


 「神」は選べない。

 「神」は分けられない。

 「神」は言葉にできない。

 「神」はアタマの外に在る。

 だから「神」は存在しない。

 言葉にできず、アタマの外に在るのなら、人間にとってそ

れは存在しないことになる。「存在している」と思えるよう

なものなら、それはアタマの理解の範囲なので、そんなもの

「神」と呼ぶに値しない。


 伊勢神宮に行くと、「お願いをしてはいけません」と書い

てある。ただ感謝の気持ちでアタマを下げる。それまで自分

の身に起きた良いことも悪いことも関係なくアタマを下げ

る。そういう考えが基本である「神道」は、宗教のなかでは

かなりイケてる方ではないだろうか。


 何に対してアタマを下げているのか知らない。なぜアタマ

を下げるのか分からない。とにかくアタマを下げるけれど、

そこには「アタマを下げている自分」「アタマを下げること

のできる自分」が在る。

 「自分」というものに実体が有るのか、意識だけで実体の

ないものなのかに関わらず、さしあたり、いま「自分」とい

う感覚はある。その「自分」を生みだしたのは「自分」では

ない。「自分」をいまここに在らしめた《 何か 》があるだろ

う。その《 何か 》は「自分」を越えたものであるはず。だか

ら、わけも分からずアタマを下げる。わけも分からずアタマ

を下げれば、その前にはアタマの選んでいない 《 何か 

が・・・。


 どこでも、なんでもいい。理由も考えず、対象を選ばず、

なんにも分からずとにかくアタマを下げる。

 その時、わたしたちは「神」とでも呼ぶにふさわしい《 何

か 》の懐に在ることを知る。



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