2023年1月15日日曜日

「思考する余白」



 毎週、Eテレ の『日曜美術館』を観る。今回はアンディ・

ウォーホルを取り上げていた。

 ウォーホルの代表的な作品はもちろん知っているし、嫌い

でもないけれど、「いまごろ、ウォーホルなの?」と思いな

がら観た。

 観てみると、私の知らない面が沢山あって面白かったけ

ど、ウォーホルの作品や人物よりも、司会の小野正嗣さんが

ウォーホルの作品を見て言った言葉の方が印象に残った。


 それは、昔の交通事故現場を報道した新聞写真をシルクス

クリーンで加工した作品を見たときだったけど、小野さんは

「(遺体も写っている見たくないような写真だけど)作品に

することで、思考する(ための)余白が生まれる」と言っ

た。


 なるほど、そうだ。ものを考える為には余白が必要だ。コ

ンピュータのワーキングメモリみたいなものが要る。

 自分でものを考えられない人や、自分でものを考えようと

しない人は、思考の余白が無いんだな。


 アタマの中が、情報や感情や既製の思考パターンでいっぱ

いになっていて、自分で考える余地が無いのだろう。

 そのような人は、自分の中にこれまでにないものが入って

来ても、処理する為のスペースが無いので、パニックを起こ

したり、そういうものが入って来ないようにとにかく拒絶す

るしかない。これまでやって来た思考パターンに無理やり押

し込んでおかしな対応をしたり、受け入れ難くて激高したり

することになる。それは人間関係や社会にさまざまな問題を

起こす。


 なぜ「思考する余白」が持てないのか?

 それは、その人が「常識」というものをどう捉えているの

かと関係が有るだろうと思う。

 世の中の常識、あるいは自分の常識の外に、その常識に収

まらないことが存在していることを認めていないのだろう。

その人のアタマからは、今の自分の思考の外にあるものが切

り捨てられている。その切り捨てられた部分が「余白」だろ

う。


 誰にでも、それぞれの価値観や思考パターンがあって、そ

れが自分のアイデンティティを強く支えるものであれば、そ

こから外れたことを考えるのはほぼ不可能だから、そういう

部分に関しては「思考する余白」を持つことはできない。私

もできない。

 ただ、社会の常識や、これまでの自分の常識にあまりに強

く支配されていると、状況が変化しなければスゴく楽だけ

ど、少しイレギュラーなことがあっただけで平静を失うこと

になる。そして、常識の外にある価値を受け取ることもでき

ない。


 常識の外、余白でこそ、精神が持っている能力が充分に使

われるだろう。そこでこそ、生きるのに本当に必要な思考が

形作られるだろう。(お金になるアイデアなんかも生まれる

だろうね)


 老子が、器は空(から)になっていなければ使えないと言

ったが、アタマにも空の部分が必要だ。



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