2021年9月12日日曜日

責任は無い



  少し前、「無責任」の話を書いたので、その続きのような

ものを。


 「大きな責任を持つ人は、無責任である」という話だった

んですが、「責任」というものは、あくまでも社会の中に存

在するものであって、そもそものことを言えば、誰も何の責

任も持っていない。「責任」というものは存在しない。


 「責任」というものは、

 〈 期待される “ある事柄” があって、その実現を担う人間

「上手くやらなきゃただじゃ置かねぇぞ」と釘を刺す 〉

 というような考えを表す言葉と言っていいでしょう。


 上手くやって褒められることもあるでしょうが、本質的に

は社会からの圧力として機能するものですね。「ヤな言葉だ

な」と、私などは思います。「義務」と兄弟のような関係

の、“社会圧力コンビ” という感じがしますね。


 なぜそのような「ヤな言葉」が存在するかと言えば、社会

は社会の為に存在しているからですね。

 個人は社会の道具に過ぎないので、道具(機械)が上手く

動いてくれるように、「責任」や「義務」といった、枠やレ

ールがあると、効率が良いわけです。ですから「責任」は個

人の外にあるものなんですね。でも、わたしたちには強い刷

り込みがなされているので、自分に「責任」があると思って

います。でも、誰も「責任」など持っていない。


 そうは言っても、何かあれば責任を取るように責められま

すから、つい自分に「責任」があると思ってしまいます。

が、「責任」は自分ではなく、自分の役柄に掛かっているの

です。

 「責任」は “社会の自分” に有るのであって、自分の本質と

は関係ない。誰も、何の責任も持っていません。わたしたち

は皆、「無責任」なのです。言葉を代えれば「自由」という

ことですね。何にも縛られていません。それがわたしたちの

本質です。
 

 社会に生きざるを得ない以上「責任」からは逃れられませ

んが、「それは自分の本質とは別の話だ」という意識を持ち

ながら生きることは、わたしたちに余裕を与えます。その意

識がさらに深まれば、可能性も大きくなります。ただし、そ

れは社会の中での可能性というより、命としての可能性と呼

ぶべきでしょうが・・・。


 本来はどこまでも自由であるわたしたちですが、「責任」

「義務」といった思考によって、小さく成型されてしま

い、それを “自分” だと思っている。

 社会の端末機となっているアタマにとっては、それが当然

ですが、幸か不幸か、わたしたちの本質は、大抵、それを容

認しない。それは不安や苦しみや、怒り、悲しみとなって表

に出てくる。


 「そうじゃないだろう!」


 わたしたちの本質はそう叫ぶ。



 「責任」の「責」は、もちろん「責め」ですが、生きてい

るということそれ自体に対して、誰一人として「責め」を負

う理由など有りません。しかし、誰かの「責任」を追及し

て、「死ね!」ぐらいの言葉はしょっちゅう使われます。そ

の命、存在自体までが「責め」の対象になります。


 やり過ぎですね。狂っています。ほとんどの人が社会のス

トーリーに没入して狂っているんですね。

 狂った人が、社会を狂わすのではなく、社会が人を狂わせ

てるのです。

 誰でも、時折り社会が狂ってるように思えることがあるで

しょうが、それは社会が狂っているということが、分かりや

すく表面化しているに過ぎません。誰かのせいでそうなって

いるのではなく、それが社会の本質なのです。


 そのように、社会が狂っていると分かったとしても、いま

さら社会を根底からリセットすることは不可能です。何千年

も前に、パンドラの箱は開いてしまっています。

 わたしたちに出来ることは、「責任」や「義務」といった

社会からの圧力は、社会の側の都合に過ぎないと理解して、

自分の存在自体を否定するような意識を持たないことです

ね。


 社会に対してはもちろん。誰にも、自分に対しても、何の

「責任」もありません。

 その完全な自由、くつろぎを原点にして、わたしたちは生

きるべきなのだと思います。

 まぁ、世の中には付き合わざるを得ないのですがね。




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