2021年8月30日月曜日

「可能性」の不可能

 

 障害のある人が自分の可能性を確かめようと、他者と競い

合うことが賞賛される社会とは、果たして良い社会なのか?


 いま開催されているパラリンピックを見ていてそう思う。

 出場しているアスリートの話を聞いていてそう思ってしま

う。このブログの書き手は、なんともへそ曲がりな人間だ。



 「可能性」などと言う。「可能性」って何だ?


 前回「人はもれなく出来損ないだ」と書いたが、人はその

ままで完璧だ。

 そこから、人が持つごく自然な向上心によって自分を成長

させてゆくことは良い事だ。ただ、それが社会的な評価と結

びつき、他者と競い始めると話は変わってしまう。

 ひとりの人間の在り方を、なぜ社会が評価する?

 自分の価値を、なぜ他者やそれまでの自分と比べ、それを

越えることで保証しようとする?


 「可能性」とは何だ?

 いま、そのままで、その人として「全能」ではないか。

 そのままこそが「全能」ではないか。
 

 社会の条件に照らして、いまあるその人の、そのままを認

めない社会がある。その社会が「可能性」という物語に人を

誘い込む・・・。「可能性」を追えば、自分の「全能」を知

ることは不可能になってしまう。


 個々のアスリート達は、希望を持ち、喜びも持ち、涙ぐま

しい思いを重ねているだろう。それは人として否定しない。

その人にはその人の事情がある。それでいいのだろう。

 しかし、人の本質的な幸福を前提に見れば、オリンピック

もパラリンピックも、私の目には奇妙なものに映るのだ。


 ずいぶん前にも書いたが、ウサイン・ボルトが「わたしは

これまでも自分を証明してきた」と言った。いったい何を

「証明した」のか? なぜ「証明」しなければならなかったの

か? 私はボルトの言葉から、社会の持つ闇や、個人の素直な

幸福を見失わせる詐術を感じる。それは「陰謀」というよう

なものではなく、社会のもつ欠陥と言うべきものだが・・。


 社会の評価ではなく、比較することによる保証でもなく、

お互いを認めること。自分を認めること。「可能性」なん

て、それが出来てからのオマケであるべきだろう。




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