2021年8月22日日曜日

屁理屈の効用



 いつも私が書いていることは屁理屈だ。街を歩いている人

をランダムに選んで、このブログを読ませたら、九割の人に

「屁理屈だ」と言われることだろう。けれども、それで私が

めげるわけでもない。そういうものだと思っているし、こう

いう話も有る。


  生活の上では苦しいこともあり、誇らしいこともあり、            

  いろんなことがあるけれども、それらのことはみな人間

  の妄想だと気がつけば、小言が消える。全部がそのまま   

  受け取れるような心境です。自分に都合のいいときには 

  しあわせに感じ、都合のわるいときは不しあわせに感じ

  る。それを両方ともに受けとれたら、一生涯切れ目なく

  しあわせになるわけです。

   屁理屈じゃ、これは。しかし宗教的安心というのはそ 

  ういう姿です。人間の幸不幸にかかわらずしあわせにな

  れるのです。自分で判断をすることをやめることです。 

  
            余語翠巌『禅の十戒』 から


 ひとは、自分の依っているストーリーに合わない理屈は、

屁理屈だとかナンセンスだとか言う。けれど、自分のストー

リーを成り立たせている理屈を、根本的に正当化することな

どできないということは無視する。というより、そこのとこ

ろを揺さぶるような話であればなおのこと、「屁理屈」、

「ナンセンス」と切り捨てたくなる。


 自分のストーリー、つまり妄想を守る手として、他のスト

ーリーを妄想だということにする。「あっちが妄想なんだか

ら、こっちが真実なんだ」と思うことができる。けれど、そ

う思うだけです。こっちのストーリーも、あっちのストーリ

ーも妄想です。それぞれのアタマの中にあるだけです。どっ

ちが真実か、どっちが上か下かなんてどうでもいいことで、

それぞれのストーリーによって、それぞれに、ぼちぼち生き

てい行けるのならそれで十分なはず。ところが、自分のスト

ーリーを揺さぶられると、パニックを起こして相手を潰しに

かかったりする。

 ネットで、バッシングしたがるなんていうのはそういうこ

とだけど、自分のストーリーは自分の都合に合わせた妄想で

しかないんだと意識していれば、自分の都合に相反すること

を聞かされても、そんなに必死になりはしない。「まぁ、そ

ういう見方も有るね」と思える。けれど、誰もが自分のスト

ーリーを真実だと思ってるもんだから、世の中は、妄想の縄

張り争いになってしまう。


 人は理屈を使わずに生きることはできないのでしようがな

いけれど、理屈というものはすべて “仮のもの” 。どんなに精

緻にできていても、真実を説明しきることはできない。それ

は思考の限界。真実は思考の外にある。


 理屈は人が生きるための道具なので、そこそこ役に立てば

それでいいのに、世の中には理屈を守る為に大喧嘩したり命

まで賭けるような人が大勢いる・・・、アタマが悪い。


 屁理屈というものは、「屁のような理屈」ということだけ

ど、吟味してみれば「理屈というものは屁のようなものだ」

と気付かせてくれるだろう。

 「こっちの理屈もご都合主義だな・・」と。


 屁のような “理屈” の外に、理屈抜きの真実の世界が広がっ

いるのにね。



 

0 件のコメント:

コメントを投稿