2021年8月29日日曜日

出来損ないだから💛



 この前ある動画を観た後に、公共の場での日本人と欧米人

などの違いについて考えた。

 個人主義的な欧米の人にとって、公共の場(あるいは公共

の物)は、個人が自分の都合に合わせて利用するものなのだ

ろう。それに対して、日本人にとっての公共の場は他人が利

用することを妨げない為に、できるだけ空けておくべきもの

なのだろう。そう考えると、日本と外国の公共の場でのいろ

いろな違いに説明がつくように思う。


 そして、人間関係というものも一種の公共の場なので、

本人は人と人との間に、出来るだけ自分の都合を持ち込まな

いということになる。

 それは謙虚さに繋がる一方、物事がハッキリしないという

ことにも繋がる。


 謙虚さが、それぞれの人の内面まで及んでいるのなら良い

のだが、人と人との間だけの謙虚さであることが多いので、

腹の底では「このヤロー・・・」とか思っていたりするのが

日常茶飯事。そのような謙虚さは、日本では公共のマナー程

度だといえる。本当に謙虚な人というものは、自分の部分

でも他者の為に空けることのできる人だろう。


 人というものは出来損ないなので、そのような謙虚さを持

ち合わせる人は少ないけれど、本当に謙虚な人も、やはり出

損ないなのだろうと思う。ただ、本当に謙虚な人は、自分

の出来損ないさ加減を強く自覚している人だろう。それだか

らこそ、「出来損ないの自分が出しゃばっては問題を起こす

だろう」と思い、人との関わりの中で、出来損ないの自分は

どんどん後退して行き、そこに他者のスペースが作られるの

だろう。


 これは一見「自己否定」のように見える。けれども、その

謙虚な人は「自己否定」をしているのではないだろう。その

人は「自己肯定」をしないだけなのだろう。


 人との関わりの中で「自己否定」ばかりをしていては、追

い詰められ、やがて社会に居場所がなくなって心の病になっ

たり、自殺したりということが起こる。それがなぜかという

と、「自己否定」の裏には「自分を肯定したい」という強い

欲求があって、それが強いほど反作用として「自己否定」の

ダメージも大きくなってしまうからだ。「自分は出来損ない

ではない」という事実誤認のゆえとも言える。



 人は誰も出来損ないなのだ。例外は無い。

 そのことを徹底的に理解すれば、「自己肯定」の欲求が消

える。もはや「否定される自己」も無い。「自己肯定」を求

めないことは、「自己否定」からの解放だ。


 人は誰でも出来損ないだ。誰でもだ。

 なのにわたしたちは絶えず「自分は出来損ないではない」

と思いたがり、それを示したがる。なぜ出来損ないのままで

いられない?

 誰もがお互いに出来損ないなのだ。認め合えばいいではな

いか? それが人としての事実ではないか。 なのに誰もが背伸

びをし合って張り合っている。それで一時の自己肯定感を得

られたとしても、結局疲れるだけだろう。


 もしもあなたが、自分の出来損ないさ加減を深く受け入れ

たら、あなたは人間関係においていつも引いている人になる

だろう。他人の求めに応じて自分の場所を気軽に明け渡す人

になるだろう。その結果、出来損ないのあなたは他のひとか

ら「謙虚な人」と思われ、そしてこう評価されることになる

だろう。


 「なんて、出来た人!」
 


 出来損ないであることを誤魔化して何になる?

 出来損ないの何がいけない?

 出来損ないの自分を認めよう。

 出来損ないの他人を認めよう。

 それが事実なんだから。

 わたしたちはもれなく出来損ないなのだから 💛



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