2023年10月3日火曜日

信じる者に救いは無い



 タイトルがケンカ売ってますが、今回は宗教や信仰の話で

す。

 かなり注意しないとディスってしまいそうなので気を付け

て進めようと思いますが、この一文がすでにディスる為の前

振りのような気がします・・・。どうなるのかなぁ。


 前に「神は信じるものではない」というようなことを書い

たことがあります。「神を信じるとか信じないとかなんて、

何様だよ」という思いがあるのでね。

 神は人が信じる信じないなんてことを凌駕している存在な

はずでしょう? 人よりはるかに高次な存在で、神が人も生み

出したのだから。であるならば「信仰ってなんなのさ?」っ

て思うわけですよ。「信じる」って、もしかすると凄く鼻持

ちならない事なんじゃないかって感じるのです。
 

 「信じる」って、合理的な根拠も無く認めるってことでし

ょう? それは、思考停止して、間違ってる可能性を棚上げに

するってことじゃないですか? そういう理解が通るのなら

ば、「信じる」というのは、おおっぴらに他人に言えるよう

な事ではないですよね。中途半端であさはかなんだから(や

っぱりディスってる)。それに加えて「信じる」気持ちに

は、見返りを期待する思いが含まれている。「信じてるんだ

から、しあわせになれるだろう」と。そうであるからこそ、

災難に見舞われたりしたら「神も仏もないものか・・」なん

て口にする人がでてくるわけです。いや、神や仏はアンタの

為に存在するんじゃないよ。


 「神」って、こちらがひれ伏すようなものなんじゃないで

すか?

 「神を信じる」というその裏には、「信じてあげるから、

こっちを気分良くさせなさい」という傲慢が潜んでいるので

は?。


 ことは「神」や宗教だけの話では済みません。

 人を信じる、国を信じる、科学を信じる、新聞・テレビ・

ネットを信じる、自分を信じる・・・。あらゆる「信じる」

は思考停止と打算を伴っている。

 「信じる」という、打算的で無責任な行為を良しとする人

間を、普通は誰も救いません。そういう人間は、別の打算的

な人間に利用されるのが関の山です。「信仰」の証しとして

壺を買わされたりなんていうのは典型的ですが、人・国・科

学・マスコミ・ネット・経済などあらゆるところで、「信じ

る」の中に有る打算を逆手に取られて食い物にされてしまい

ます。信じる者に救いは無い。そして、信じる者を食いもの

にする方にも救いは無い。そういう人間は当然ながら打算の

塊のような人間です。彼らは、金だとか名誉だとか権力だと

かを信じていますが、その部分をさらに狡猾で打算的な人間

に利用されます。そして、そのような人間も、最終的には社

会のシステムやムードに利用されることになるので、「打算

の入れ子構造」になっています( “継ぎ接ぎ狂ったマトリョ

シカ” とはこのようなことだろうか?)。どの段階でも「信

じる」ことの先に待っているのは、しあわせではありませ

ん。


 取っ掛かりとして、何かを信じてもいいのですが、信じる

ことを越えなければいけません。「当然のことだから信じる

必要もない」というところまで辿りつかなければなりませ

ん。「信じる」という作為の向こう側まで突き抜けなければ

なりません。「なんだ、信じたりする必要も無かったんだ

な」と。


 あなたも私もいま生きている。それは信じる必要のないこ

とです。

 こんな面倒臭いブログを読んでいるあなたは十中八九日本

人だと思いますが、あなたは自分を日本人だと信じる必要は

ありません。日本人なんだから。

 信じる必要の無いことは、揺らぐことの無いことです。も

うすでに「そう」なんだから。

 逆に、信じることは確定していないことです。確かではな

いが故に信じる必要が生まれてしまう。信じることは、自分

を不確かな所へ立たせることです。

 救いは、信じる必要の無いところに在る。


 いま自分は生きている。

 いま世界は在る。

 それは信じる必要が無い。最も確かなことです。

 「最も確かなこと」が、いま自分にあり、いま自分の周り

にあるのなら、それは救いではなないでしょうか?


 信じる者に救いは無い。

 信じない者にも救いは無い。

 信じることも、信じないことも必要ではないところに救い

はある。

 それはなんの変哲もない、ただ生きているわたしたちの

日々としてある。

 特別な何かを信じ、それを価値あることと思いたがる心の

陰になっていて気がつかないだけで・・・。





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