2019年12月15日日曜日

中村哲さんから、『四月怪談』へ・・・



 前回、中村哲さんのことを書いたが、私のアタマはもう次

の出来事を探している。

 アタマは考えることが生業で、考えなければ消滅してしま

うので、次から次へと考えるためのネタを探し続けている。

どんなに出来の良いアタマでも(私のことを言っているので

はないよ)、アタマは神経症的なのだ。言い換えれば、思考

は病気だということ。ごく稀な例外はあるでしょうがね。ご

く稀なんですが。


 中村哲さんのような活動をしてきた人のことを、ほんの数

日で「過去のこと」としてしまえるほどに、わたしたちのア

タマは「本気」じゃない。自分の日常に深く根差した(と思

える)事でなければ、社会的にどんなに大きな事柄であって

も、それは単なる「ニュース」として処理される。


 それは当然と言えば当然のことで、世の中の様々なことに

深く関わっていると、各々の日常は停滞してしまう。人には

それぞれ違った暮らしがあり、それぞれの事情があるのだか

ら。とはいえ、中村哲さんのして来た事とそれに関わった

人々のことに思いを馳せることは、現代の私たちにとって

「すべき価値のあること」ではないだろうかと思う。


 生きているとはどういうことか?

 生きて行くことの本質とは何か?

 人と人との関わりはどうあるべきか?

 人にとって、幸せとは何か?

 そういったことは、どのような人にとっても他人事ではな

  それが他人事なら、その人は生きながら死んでいるの

だ。


 一日の多くの時間をスマホの中で過ごしている今の日本人

にとって(このブログのことはひとまず別にしてネ)、中村

さんとアフガンの人々がして来た事が何を意味するのかは、

簡単に流してしまわずに思いをシンクロさせるべきことだろ

うと思う。各々のしあわせと、ちょっとマシな社会を作るた

めにね。


 ニュースなんて、どんなに華々しい事や感動的な事、ある

いは悲惨な出来事であっても、そのほとんどはエゴの興奮や

茶番に過ぎないのだけれど、その中に時々、ほんとうに生き

ている人のことが混ざっていることがある。肝に銘じるべき

ことがある。

 それは単なるヒューマニズムや世俗的な「善」ではなく、

人の心の根底から湧き上がって来る「命の実感」のようなも

の・・・。

 人が、その歴史の古い古い昔から見失い、現代ではそれの

イメージさえ忘れてしまっているようなこと・・・。


 「命の実感」


 そう書いていて、今、急に大島弓子さんの『四月怪談』を

思い出した。


 主人公の女子高生 初子 は事故で死ぬが、まだ成仏できず

にこの世にとどまっていて、浮遊霊の岩井弦之丞と出会う。

弦之丞は初子に「今なら生き返れる」と生き返ることを促す

が、初子は「なんのとりえもない自分になど戻りたくない」

と、このまま死ぬと言う。

 それを聞いた弦之丞は「とりえってなんですか?とりえっ

て、すなわちあなた自身ではありませんか。飛べないことも

不可能のことも冴えないことも、みんなとりえなんじゃあり

ませんか」と泣きながら訴える・・・。

 それでも生き返る気にはならなかった初子だが、自身の葬

式が終わり、遺体が火葬されようとするその時に、取り乱し

泣き叫ぶ母の姿を見、友達の夏山登が手渡そうとしたレンゲ

の花を受け取ろうとして、思わず身体に戻り、生き返

る・・・。


  なにを見ても なにをしても

  奇妙に新鮮に感じるし


  見なれた町なみを見ても うれしい

  コップをもちあげて 水をのんでもうれしい


  ときには

  右足の次に左足をだして こうごにうごかして「歩く」

  という動作にも感動している 

               『四月怪談』より

 生き返った初子は、コップを落として割ってしまっても

「われたわー、われてしまったわー」と面白がっている。



 不毛の土地に水を引くことと、コップを割ってしまうこ

と、右・左と足を出して歩くことは繋がっている。


 「命の実感」を感じられるかどうかは、いまあること、生

きていることへどんなまなざしを向けるかによる。どんなま

なざしで見るかで生き方が決まる。

 「命の実感」は、あたりまえの、ありふれた今に、満ち広

っているのだが・・・。






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