2019年12月13日金曜日

本気の人



 ご覧の通り、このブログには広告が無い。広告を載せたと

ころで閲覧者が少なすぎて一銭にもならないが、それ以前

に、ブログの内容を鑑みて(“かんがみて” と読みます。別

にバカにしてるんじゃないですよ。もうこの言葉は古すぎる

かもしれないと不安になっただけです)、「金にしてはいけ

ない。金にすると、何かがウソになる」と思ったので、広告

を載せないことにしたのです。


 このブログのある「Blogger」は Google のアプリです

が、Google にとってこのブログは何のメリットも無い。

私はずっとタダ乗りしているわけです。

 もしかすると、広告を載せた方が検索されやすくなったり

するのかもしれないけれど、やっぱり「金にすると、何かが

ウソになる」という思いはぬぐえないので、例え「フォロワ

ーが十万人」ということになっても、広告は載せない  

当にそんな奇跡が起きたら、あっさりお金に走るかも知れま

せんが(¥)。


 やっぱりね、何かものを言うのなら、それなりに「矜持」

というものが必要だろうと思うのです。

 話の内容が穴だらけだったり、つじつまが合わなかった

り、一人よがりで理解不能だったりしても、「心意気は本気

です」ということがあれば、そこには伝わる “何か” がある

だろうと・・・。広告を載せないということも、表現の一つ

なんですよね。


 人が何かをする時、「本気」であるということはもの凄く

重要なことです。いや、それがすべてを決めると言ってもい

いでしょう。この世の中で何かが動く時、それが小さな事で

も、とても大きな事でも、そこには「本気の人」がいる。

 先日、亡くなられた中村哲さんは、まさに「本気の人」だ

ったのです。


 私が中村さんのことを知ったのは十年ほど前だろうか。そ

の活動を知って、「現代の日本人の中で最も立派な人のひと

りだな」と思った。

 国は「国民栄誉賞」なんてしょうもないものはやめて、中

村さんのような人に敬意を表する賞を作るべきじゃなかろう

か。当人に賞金を贈ったりじゃなくて、その志を支援する為

に支援金を出すのもいいだろうと思う。


 中村さんの活動は、まさしく地に足の着いた、観念的では

ないものだ。

 「敵だ」「味方だ」なんてことはどうでもいい。「経済」

なんて浮いた話はどこかで勝手にやってればいい(具体的に

必要な少しのお金は必要だが・・)。

「“人が生きる” ということの本質を見失わないようにす

る」

 それが、中村哲という一人の人間の「矜持」だったのだろ

うと思う。


 私のようなヘナチョコ人間が、中村哲という人間のことを

語るのは畏れ多いし、こういうことを言うのは恥さらしかも

しれないけれど、私の中にも、わずかばかり “中村哲的なも

の” がある。そして、それはほとんどすべての人の中にもあ

る。

 中村さんがあれだけのことを成し遂げられたのは、「自分

と同じものが誰もの中にある」ということを信じて疑わなか

ったからだろう。そして、中村さんを襲撃した者たちの中に

も「それはある」と中村さんは思っているのではないだろう

か。ただ、さまざまないきさつで「それ」が見失われてい

だけなんだと・・・。


 やはり中村さんは残念だろう。怒ってもいるだろう。で

も、それと同時に、中村さんを殺した者たちにこう言いたい

のではないだろうか。

 「銃を捨てて、スコップを持ってくれないか」


 ひとりの類稀なる人間に敬意と哀悼を捧げます。

 中村さんは亡くなったが、中村さんの「本気」は、間違い

なく生き続けてゆく・・・。


 やはり、人は地に足をつけて生きるべきだろう。

 
 話が思いもかけないところへ転んだ。

 私は「個人の業績というものは無い」という考え方の人間

ですが、でもやっぱり、立派な人は立派なんです。

 勝手なことを書いた・・・。



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