2019年12月30日月曜日

きょうの出来事



 昔、日本テレビ系で夜11時頃から『きょうの出来事』と

いうニュース番組をやっていた。最近ふとそれを思い出し

て、「いいタイトルだな」と思い。「『ニュースZERO』な

んてやめて、『きょうの出来事』というタイトルを復活させ

ればいいのに」とか思った(まぁ、どうでもいいんだけ

ど)。


 それが関係しているのかどうかは知らないけど、この前考

え事をしていて、こんな言葉が浮かんだ。


 《 起こらなければならない “事” は無い 》


 わたしたちは、とかく「こうあるべきだ」と思う。

「この状況なら、こうなって当然だろう」とか、「普通、そ

うなって当たり前じゃないか」などと言う。

 過去の出来事に対しても、これから起こるであろうと思う

出来事に対しても「こうあるべきだ」と条件付けをする。

「普通」とか「常識」とか、あるいは「良心」などというも

のも引き合いに出して、出来事の是非を言う。


 けれど、何を引き合いに出そうが、結局のところ物事の是

非を判断する基準は、自分の「希望」だ。「希望」に沿うこ

とであれば納得し、「希望」に沿わなければ「おかしいだ

ろ」と思う。けれど冷静に考えれば、《起こらなければなら

ない “事” は無い》。出来事はすべて、わたしたちの「希

望」とは無関係に、起こるべくして起こる。


 そもそも、出来事が「こうあるべきだ」などと、個人ある

いは社会の「希望」に沿わなければならないと思うことがど

うかしてる。なぜ、たかが一人の人間やちっぽっけな社会の

意向に合わせて “出来事” が起こらなければならないという

のか? 「こうあるべきだ」などと考えることは、“アタマの

悪さ” の根本的な「悪さ」だと言える。


 どんな出来事も、誰かの為に起こるのではない。何かの為

に起こるのでもない。

 私が生まれ、身体が有って、今生きているという “出来

事” も、「私の為」ではない。

 私が色々なことを考えて、さまざまな事をするのも、この

世界の “出来事” の一部でしかないし、それは「何かの為」

でもなく、「起こらなければならない事」でもない。ただ、

起こるべくして起こる事だ。


 わたしたちは、社会によって刷り込まれた価値観の奴隷

で、あらゆる出来事に対して “条件付け” をする。

 ほんとうに些細な事から、世界を揺るがすような出来事ま

で、ありとあらゆることに自分の “条件付け” を投影して、

良いか悪いか決めつけ、一喜一憂する・・・(一喜八憂ぐら

いだろうか?)。わたしたちは誰も、「起こらなければなら

ない事がある」と思っている。でも、それは無い。


 《 起こらなければならない “事” は無い 》という認識

は、エゴにとっては残念な “事” だろう。でも、それは本質

的な意味で人を自由にする。



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