2019年12月8日日曜日

逃げます



 前回の話の中で、「おまけ(世の中)から目をそらせばい

い」と書いたけれど、後で考えてみると「これでは単なる 

“現実逃避” でしかないか」なんて思った。

 それではちょっと悔しいので、これから言い逃れをしよう

と思う次第(これがまた “現実逃避” になりそうだけ

ど・・・)。


 “現実逃避” と言っても、現実はどこまでも現実であって

逃避のしようがない。ある “現実” から逃れても、逃れたそ

の場所にあるのも “現実” ですよね。

 “現実” が苦しいから妄想の世界に入り浸っても、それは

「妄想しているという “現実”」があるだけのこと。 

「学校に行くのが辛すぎる」ので不登校になっても、そこに

は “不登校” という現実がある。

 「学校に行く」という、これまでの “現実” よりはましだ

としても、次の “現実” もあまり受け入れやすいものではな

さそう。結局のところ、やっぱり “現実” に苦しめられるこ

とになる。“現実” って、基本的に「苦しい」ものなんです

よ。お釈迦様が言ってます。「生きることは苦である」と

ね。


 では、なぜ "現実” が苦しいかというと、それが “妄想” 

だからです。


 「“現実” が “妄想” ?」


 一見、ムチャクチャな話のようですが、別に難しい話では

ありません。わたしたちが自分で捏ね上げた “妄想” を “現

実” だと思っているだけのことで、世間一般で言われる “現

実” というものは、わたしたちが「現実感」を付与した “妄

想” のことです。

 その “現実” の中で、人が死んだり、災害が起こったりは

しますが、そうした出来事に対する「重み付け」は、人によ

っても、時と場合によっても違います。それは “現実” とい

うものに “意味的な絶対性” が無いからですが、そんな大げ

さな言い方をする必要もないですね。本当は “現実” には意

味が無い。普通わたしたちが見ていて取り扱う “現実” は、

恣意的で、“妄想” と呼ぶしかないものです。本物の “現実” 

は意味の外にある。


 私が「おまけ(世の中)から目をそらす」と言ったのは、

「妄想を本当だと思うな」ということですね。

 自分がしている「意味付け」も “妄想” なら、まわりの人

間たちがしている「意味付け」も “妄想” です。それに関わ

らずに生きて行くこともできませんが、自分の考えも誰かの

考えも世の中全体の考えも、「それはそうとして」と、一旦

棚上げにしてみたりできることは良いことでしょう。

 “妄想” は “妄想”  ゆえに “現実” との間に齟齬を生みま

す。“現実” を受け止めそこなうと言った方がいいでしょう

か。だから苦しみが生まれます。


 お経だったか、昔のお坊さんの言葉だったか忘れました

が、「莫妄想」という言葉があります。「妄想するな」とい

う意味らしいですが、この言葉は「宝くじがあたった

ら・・・」とか、「彼と結婚出来たら・・・」とか、「○○

のように生まれていたら・・・」といった、いわゆる「妄

想」のことではなくて、「物事を自分の価値観でもって意味

付けするな」、さらに言えば「物事に価値判断を持ち込む

な」ということでしょう。「価値判断」を持ち込むと “現

実” が見えませんからね。


 「価値判断」を持ち込まずに物事を見るとそこに初めて 

“現実” が見える。物事の「ありのまま」「そのまま」が見

える。価値に毒されていない「なんでもない」世界が広がっ

ている。


 自分も「なんでもない」し、世界も「なんでもない」。

 穏やかなんです。


 台風がやってきてもの凄い風が吹いている。

 「大変だ!」と思えば、そこにはもう価値判断が入り込ん

でいる。

 台風がやってきてもの凄い風が吹いていたら、「もの凄い

風が吹いているな」と見るのが「ありのまま」「そのまま」

な見方ですね。


 「あなたはガンです」と言われて、「自分は死ぬんだろう

か」と震えあがったら、それはもう “妄想” に入り込んでい

ます。

 「あなたはガンです」と言われたら、「そうですか。では

どういう風に治療とかしていけばいいでしょうか?」と淡々

とすべきことを探ってゆくのが、「ありのまま」な対処の仕

方ですね。


 世界は、起こるべき必然が起こっているだけです。「なん

でもない」のですが、わたしたちのアタマは、「なんでもな

い」では済ませられないようになっている。


 物事すべてを「なんでもない」と捉えた瞬間、それと対応

関係にある自分も「なんでもない」存在になってしまいま

す。つまり自分がなくなってしまいます。わたしたちのアタ

マはそれが恐ろしいのです。なので、どんなに苦しみに遭っ

ても、「意味付け」することを止められない。


 でも、世界も自分も「なんでもない」と見ても、その「な

んでもない」に気付いている〈意識〉が残っています。自

我・エゴとしての自分は消えますが、その背後に元から存在

している 〈意識〉が立ち現れます。それは常に穏やかなん

です。だって、そこには「価値判断」が有りませんから、物

事に乱されることがありません。

 起こっている物事を「そのまま」に受け止めてゆくことが

できれば、わたしたちは穏やかにいられます。その為には

「世の中から目をそらして」「一旦棚上げにする」といった

スキルが役に立つ(「役に立つ」と言うと、すでに価値判断

が入っているのですがね)。


 と、ここまで「“現実逃避” ではない」という言い逃れを

してきました。“現実逃避” ではなくて、「“現実” と見做し

てしまっている “妄想” を “回避” するのだ」ということで

すね。

 さて、私は逃げきれたでしょうか?


 (『「平常心」のなかで』2019/8  という回でも同じよ

な事を書いているので、よかったらそっちも見てみてくだ

い)

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