2019年11月17日日曜日

素直にね



 今、Michel Jones というピアニストの曲を聴きながら、

これを書き始めた。


 Michel Jones は80年代から活動している、いわゆる

「ニューエイジ」系のピアニストですが、その演奏は、素直

で自然で明るい。

 イメージが音楽になるまでの間に、計算やこだわりなどの

夾雑物が無いという気がする。私はすべての音楽ジャンルの

ピアニストの中で一番好きかもしれない。



 と、こういう取っ掛かりで始めて、話がどこへ行くのだろ

うと思ったのだが、さっき「素直」という言葉が出てきたの

で、「素直」について話そう。


 今回、『アナと雪の女王』の続編が公開されるということ

で、マスコミがよく取り上げている(宣伝しているというこ

とですが)。もちろん私は観ない。前回も観ていない。

 前回ブームになった時に、そこら中で「ありのままの~」

というあの曲が流れて辟易としたのをよく憶えている。

 あの甲高い声(とくにオリジナルの方)が耳障りだった

し、「ありのままの~」という歌詞が聞こえてくるたびに、

「“ありのまま” って、ほとんどの場合 “身勝手” ってことで

しょ。バカが勘違いするからやめてほしいなぁ」という思い

が浮かんでしまって嫌だった。

 もちろん私は映画の内容は知らないので、あくまでも上っ

面の情報でそう感じていたのだけど、人というものは、もの

ごとの「自分に都合の良い部分」だけを受け取るものなの

で、あの当時、映画を観た人の中にも「ありのままの~」と

いわれて、「自分の好きなようにするのがイイんだ!」と、

あの歌を “身勝手の免罪符” のように捉えた者もかなりいた

ことだろう。

 「素直」って、ホント、難しいんだ。

 「“素直” って、そんなものあるのか?」というぐらい、

つかみどころのないものです。素直にそう思います。



 コンビニで目にしたケーキが美味しそうだったので、その

まま持ち出して食べる。

 素直ですね。でも、万引きです。


 電車で隣に座ったオバさんが、ベラベラ大声でしゃべって

うるさかったので、「うるせえ!」と言って殴った。

 素直ですね。でも、暴行です。


 隣のクラスの女の子がすごく可愛くてのぼせ上ってしまっ

た。毎日後をつけて、家の前に張り付いて、出てきたところ

を抱き付いた。

 素直ですね。でも、ストーカーです。


 国の将来が心配だ!このままではいけない!なんとかしな

ければ!

 努力と運でカリスマ政治家になり、国のトップになって、

自分が正しいと思う政策を推し進め、新しい法律を作って、

国を害すると思われる人間を次々に投獄したり粛清できるよ

うにした。「これでわたしの思い描く “良い国” にな

る・・・」。

 素直ですね。でも、独裁者です。(良い独裁者というの

も、理屈の上ではあり得るとは思いますが・・・)


 苦しい・・・。もう、生きていたくない・・・。

 自ら命を絶った。

 素直ですね・・・。でも、悲しいことですよ・・・。


 いま挙げたようなことは極端な事ですが、私がただのひね

くれ者なんでしょうか?


 「ありのままの」って、「素直」って、あるいは「自分ら

しく」って、いったい “何” に従ったらそう言えるのでしょ

う?


 周りの人間の言うことに従ったら「素直」なんでしょう

か?

 自分の欲望に従ったら「ありのまま」なんでしょうか?

 自分の思考に従ったら「自分らしい」のでしょうか?

 自分の感情に従ったら「ありのまま」なんでしょうか?

 自分の感覚に従ったら「素直」なんでしょうか?


 わたしたちの中にも外にも、無数の “動かそうとする働

き” が常にあって、わたしたちを突き動かそうとしています

が、「ありのまま」とか「素直」とかいう意識が働くとき

は、実は迷っているときです。迷いがないなら、「ありのま

ま」とか「素直」とか考える前に、もう何かをしているもの

ですからね。「ありのまま」とか「素直」とかの意識が働く

のは、行動の選択に迷っているときなんですね。


 なぜ迷うのかというと、「自分にとって将来有利な選択を

したい」と思うからであって、実は「ありのまま」「素直」

といった意識の後ろには、“打算” が隠れているのです。


 「ありのまま」「素直」などというと、なにか「ピュア」

なイメージがありますが、その実態は “打算” です。

 『アナと雪の女王』が流行った時。あの「ありのままの

~」という歌が聴こえるたびに私が少し不快になったのは、

そのイメージと実態のギャップを感じていたからなんです

ね。


 「ありのまま」や「素直」という意識は、“行動” に係っ

てくるものですが、本当は、“在り方” に対するものです

(“在り方” も “行動” ではありますが)。

 「ありのまま」や「素直」ということが実体化するのは、

自分から動かない時だけですから。


 ですから、死人ほど「ありのまま」なものはありません。

死人に打算はありません。死人は迷いません。人が本当に

「ありのまま」「素直」になる時は死んだときです。


 もし、生きていながら死んだようにいられるのなら、それ

が本当の「ありのまま」であり、「素直」ということでしょ

う。そして、迷いの無い、穏やかな状態でしょう。
 

 どうしたら「生きながら死ねる」か?


 「自分にとって将来有利な選択をしたい」という打算が、

迷いになるわけですから、「自分にとって将来有利な・・」

という思いを無くせばいいわけです。そもそも、何が「自分

にとって将来有利」かどうかなんて、誰も知らないのです。

さらに言えば、「有利」ということ自体が、ある文脈・価値

観の中でしか意味を持ちません。いま、こうして生きてい

て、いずれは必ず死んでゆくわたしたちにとって、「有利」

って何ですか?


 そうしてみると、「自分にとって将来有利な選択をした

い」という思いを無くすのは、そう難しいことでもなさそう

です。

 本当は「知らない」、本当は「分からない」ことを、掴み

に行こうとかそうなろうとかするのは、ほとんど徒労だと分

かります。徒労だと分かっていることに、人はエネルギーを

注げません。

 「分かんないんだから分かんないままでいるしかないな」

 そうやって、迷いをストップさせたら、それが「生きたま

ま死ぬ」ことです。アタマに死んでもらうのです。

 本当に「ありのまま」で「素直」になったら、迷いなんか

無い。選択なんて意味を持たない。


 話を Michael Jones に戻しましょう。

 いま窓の外ではウインドチャイム(風鈴)が鳴っているの

ですが、あれは風まかせです。自ら「こう鳴ろう」とかいう

わけではない。

 Michael Jones の音楽も、自然から受けたイメージが、

彼の中を通って素直に音になって出てきているように感じま

す。

 「ありのまま」って、ウインドチャイムのような “在り

方” なんじゃないでしょうか。




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