すべてが黄金だった。
なにを言い出したかというと、この前、突然「比較する」
という感覚が完全に無くなった時があって、この世界のすべ
てが、まるで黄金のように感じたんですよ。実際のところ
“「存在していること」の絶対性” 以上の価値が有り得る
だろうか? あらゆる「比較」のその前に、すべての物と事
が “存在している” 。
すべてが等価で、絶対で、最高の価値を持っている。い
や、価値を越えた〈価値〉として在る。「在ること」自体が
〈価値〉なのだ。いわば、すべてが黄金なのだ。これ以上な
いほど満たされているのだ。そう感じた。
自分の身体も、空気も、大地も、水も、冷蔵庫も、石ころ
も、ハトのフンも、スマホも、ランドセルも、サンダルも、
カナヅチも、机も、階段も、インフルエンザも、癌も、白髪
も、口紅も、ゆで卵も、アイスクリームも、彼氏や彼女も、
子供も、ダンゴムシも・・・。
何もかもが絶対の〈価値〉として現われている。
気が付いたら、すべては黄金だった・・・。
初めから終わりまでそうだった・・・。
完璧に、満ち足りていた・・・。
何の不満も無い・・・。
《 足りないものは「満足」だけ 》と以前書いた。(『足
りないものは「満足」だけ。』2017/10)
すべてのものが等価で、絶対で、最高の価値を持っている
のであれば、不満の持ちようが無い。そして、実際の世界は
「比較」の無い(「比較」できない)、すべてが等価で、絶
対の世界なので、誰も不満など持ちようが無いはずなのだ
が、アタマが悪さをする。アタマは満足を知らない。
もしも、すべての子供に、ものごころが付いてから、社会
が「今に満足する」ことを教えるようにしたならば、この世
の中はどのようになるだろうか? 「比較すること」を止め
るように育てたならば、どのような世界になるだろうか?
「不満」というのは「否定」のことだが、「否定」の無い
ところには「憎しみ」も「争い」も「攻撃」も無い。「足る
こと」を知る世界は、穏やかな世界だ。
ところが、この社会は、子供に徹底的に「比較すること」
を教え込む。
「今に満足すること」を否定する。
社会が培養してきた〈エゴ〉を子供たちに与える。
それは、多くの場合「夢」や「成長」や「正義」という言
葉で隠されて、「善いもの」として子供たちに植えつけられ
る。
そしてすべての子供が、自身の《命》
る」という事ではなく
きることになる。「満足」することを知らず、常に「足りな
さ」に苦しみながら・・・。
バーノン・ハワードという人が、『なぜあなたは我慢する
のか』(日本教文社)という著書の中でこう書いている。
《 人間の幸福のためにする社会の行為、計画はすべてま
やかしとなる、まるで一方の手でなぐり倒し、別の手で助け
起こし、助け起こしたところだけをとりあげて英雄的行為と
称するようなものだ。われわれが科学、農業などでなしとげ
てきた進歩は、人間の本性のせいではなく、人間の本性にも
関わらずといわねばならない 》
「進歩」
「人間の幸福」
それらは社会の〈エゴ〉の偽装だ。
〈エゴ〉は、「今に満足し、今すぐ幸福になること」を否
定する。いや、肯定できない。「比較」しなければ〈エゴ〉
は存在できないから。〈エゴ〉は人の生の中で、「比較」と
「否定」と「満足しないこと」という意識を再生産し、自身
を存続させようとするウイルスのようなものだ。
わたしたちは皆、〈エゴ〉に意識を乗っ取られて生きて行
く。
どんなに苦しくても、その苦しみは「幸福」や「善」のた
めに必要なものだという〈エゴ〉の偽装を信じ込まされ
て・・・。
社会がどのように言おうとも、濁らされていない目で世界
を見ることができれば、世界はすべて黄金なのだ。
(ちょっと、表現が “詩的” に過ぎたかもしれないけど、
そういうことですよ。ホント。)
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