2019年11月10日日曜日

すべてが黄金だった。



 すべてが黄金だった。


 なにを言い出したかというと、この前、突然「比較する」

という感覚が完全に無くなった時があって、この世界のすべ

てが、まるで黄金のように感じたんですよ。実際のところ

 “「存在していること」の絶対性” 以上の価値が有り得る

だろうか? あらゆる「比較」のその前に、すべての物と事

が “存在している” 。


 すべてが等価で、絶対で、最高の価値を持っている。い

や、価値を越えた〈価値〉として在る。「在ること」自体が

〈価値〉なのだ。いわば、すべてが黄金なのだ。これ以上な

いほど満たされているのだ。そう感じた。


 自分の身体も、空気も、大地も、水も、冷蔵庫も、石ころ

も、ハトのフンも、スマホも、ランドセルも、サンダルも、

カナヅチも、机も、階段も、インフルエンザも、癌も、白髪

も、口紅も、ゆで卵も、アイスクリームも、彼氏や彼女も、

子供も、ダンゴムシも・・・。

 何もかもが絶対の〈価値〉として現われている。


 気が付いたら、すべては黄金だった・・・。

 初めから終わりまでそうだった・・・。

 完璧に、満ち足りていた・・・。

 何の不満も無い・・・。


 《 足りないものは「満足」だけ 》と以前書いた。(『足

りないものは「満足」だけ。』2017/10)


 すべてのものが等価で、絶対で、最高の価値を持っている

のであれば、不満の持ちようが無い。そして、実際の世界は

「比較」の無い(「比較」できない)、すべてが等価で、絶

の世界なので、誰も不満など持ちようが無いはずなのだ

が、アタマが悪さをする。アタマは満足を知らない。


 もしも、すべての子供に、ものごころが付いてから、社会

「今に満足する」ことを教えるようにしたならば、この世

中はどのようになるだろうか? 「比較すること」を止め

ように育てたならば、どのような世界になるだろうか?

 「不満」というのは「否定」のことだが、「否定」の無い

ところには「憎しみ」も「争い」も「攻撃」も無い。「足る

こと」を知る世界は、穏やかな世界だ。


 ところが、この社会は、子供に徹底的に「比較すること」

を教え込む。

 「今に満足すること」を否定する。

 社会が培養してきた〈エゴ〉を子供たちに与える。

 それは、多くの場合「夢」や「成長」や「正義」という言

葉で隠されて、「善いもの」として子供たちに植えつけられ

る。

 そしてすべての子供が、自身の《命》  単に「生き延び

る」という事ではなく  の為ではなく、〈エゴ〉の為に生

きることになる。「満足」することを知らず、常に「足りな

さ」に苦しみながら・・・。


 バーノン・ハワードという人が、『なぜあなたは我慢する

のか』(日本教文社)という著書の中でこう書いている。


 《 人間の幸福のためにする社会の行為、計画はすべてま

やかしとなる、まるで一方の手でなぐり倒し、別の手で助け

起こし、助け起こしたところだけをとりあげて英雄的行為と

称するようなものだ。われわれが科学、農業などでなしとげ

てきた進歩は、人間の本性のせいではなく、人間の本性にも

関わらずといわねばならない 》


 「進歩」

 「人間の幸福」


 それらは社会の〈エゴ〉の偽装だ。

 〈エゴ〉は、「今に満足し、今すぐ幸福になること」を否

定する。いや、肯定できない。「比較」しなければ〈エゴ〉

は存在できないから。〈エゴ〉は人の生の中で、「比較」と

「否定」と「満足しないこと」という意識を再生産し、自身

を存続させようとするウイルスのようなものだ。


 わたしたちは皆、〈エゴ〉に意識を乗っ取られて生きて行

く。

 どんなに苦しくても、その苦しみは「幸福」や「善」のた

めに必要なものだという〈エゴ〉の偽装を信じ込まされ

て・・・。


 社会がどのように言おうとも、濁らされていない目で世界

を見ることができれば、世界はすべて黄金なのだ。


 (ちょっと、表現が “詩的” に過ぎたかもしれないけど、

そういうことですよ。ホント。)



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