2019年11月24日日曜日

とりあえず人間



 今朝、NHKの『日曜美術館』を見ていて心にとまった言

葉があった。

 今日は秋野亥左牟(あきのいさむ1935-2011)という画

家(絵本作家)を取り上げていたのですが、秋野さんの作品

も魅力的だったし、その生き方も面白かった。

 その生き方・暮らしぶりを振り返りながら、奥さんがこう

いうことを仰った。


 「とりあえず人間」


 よく分かる。

 私も、そういう意識を持ちながら日々の暮らしを続けてい

るから。

 私はそれを《世の中をたしなむ》と表現していますが。


 「人間」と書いて、中国語では「じんかん」と読む。日本

語で言う「世間」を表す言葉らしい。

 「とりあえず人間(にんげん)」というのは、「一応、世

間の人をやっている」ということだろう。


 人は世間の中で生きるしかないけれど、世間は人を幸せに

はしない。だから「とりあえず人間」というスタンスでいな

いと不幸になってしまう。「どっぷり」「ガッツリ」人間に

なると、日々は地獄になる。


 毎度書いていることだけど、世間というのは「世間」とい

うお話しであって、そこに実(じつ)は無い。実の無いこと

に深く関わるほど、生きていることの実感は薄れて行く。

 虚しい。満足することが無い。不幸になる。


 世間には本当のしあわせは無い。有るのは “お話しの幸

せ” だけ。

 それは「楽しみ」として関わるには良いが、それを生きる

ことの本質だと思い込んでしまうと、人は生きられない。


 テロだとか、強欲なビジネスだとか、政治だとか、他のさ

まざまな原理主義的なイデオロギーだとか、「世間」という

お話しを真に受けて、「どっぷり」「ガッツリ」人間をやる

連中がとんでもないことをして周りの人を不幸に巻き込んで

行く・・・。

 けれども、そういう人間がいくら「お話し」に入れあげ

て、「世間」を巻き込もうとしても、周りがみんな「とりあ

えず人間」というスタンスの人ばかりだったら、その人間は

“「お話し」を本当だと思い込んでいるおかしい人” という

扱いを受けることになる。どんなにその "入れ込みよう” が

凄くても、しょせん一人では何もできない。

 たとえヒトラーの演説が上手くても、当時のドイツ人がそ

れを「お話し」の一つだと受け止めていれば、ホロコースト

は起きなかっただろう。


 「とりあえず人間」


 そういうスタンスで誰もが生きるなら、世界の争いごとの

九割は無くなることだろう。

 そして、人は今よりずっと、穏やかにしあわせに暮らせる

だろう。


 「お話し」をいったん脇に置いて、「お話し」以前に存在

している「生の生(なまのせい)」に意識を向ければ、そこ

はすべてが足りている完全な世界。そこには “実感” という

「しあわせ」がある。


 と、そんなことを思いながら、こんなことを書いて、とり

あえず今日を生きる。





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