2021年11月23日火曜日

「完全」な「出来損ない」?



 この前「誰もが全知全能だ」と書き、次の日には「世界は

完全だ。誰もが完全だ」と書いたけれど、このブログの書き

手は、これまでに何度となく「人は皆、出来損ないだ」と書

いている。筋が通らないので、落とし前を付けなければと思

う。


 たいそうに書き始めたけれど、そう大したことでもない。

「人は皆、出来損ないだ」というのは、社会的価値をパーフ

ェクトに満たす人間はいない。パーフェクトどころか、その

達成率は、皆かなり低いというだけの話。

 ところが、他人と比べて自身の達成率の高い面がある時に

は、他の面の程度の低さは棚に上げて、他人の出来の悪さを

批判する。そういうことがごく当たり前に横行しているのが

この世の中なので、「皆、出来損ないだよ」と言わなければ

ならなくなる。


 社会的価値をパーフェクトに満たすためには、人は神にな

らなければいけないだろうし、そもそも社会的価値をそんな

に高く値踏みする必要もない。社会は「必要悪」なのだか

ら、そこそこに扱うのが良い。そういう意味でも「皆、出来

損ない」であって問題はないと言いたい。


 いつの時代も、世界中でろくでもないことを沢山起こして

来たことを見れば明らかだけど、わたしたちのつくる社会は

「必要悪」であるだけでなく、「必要悪」としても程度が悪

い。

 社会を無くすことはできないし、無くすわけにもいかない

ので、せめて「必要悪」としての「悪」の部分が減ってもら

いたい。そのためにはその「悪」を生みだしている原因にア

プローチするのが良い。それが互いの「出来損ない性」を認

めること。それを肝に銘じて社会をやって行く。そうすれ

ば、社会はちょっと住みやすくなる。


 しかし、わたしたちは自分が出来損ないであることを認め

ると、自己肯定感が低下して不幸を感じてしまう。それがネ

ックになって、皆、自分が出来損ないであることを受け入れ

ようとしない。受け入れたとしても、「どうせ出来損ないで

すよ・・」と、大抵自虐的になってしまう。それを解決する

ためには、「出来損ない」のまま「完全」になってもらう必

要があるのです。


 社会的に見れば、誰もが「出来損ない」だ。けれど、「生

きている存在」としては、それぞが「完全」だ。その二重性

に目を向けてもらいたい。そして「生きている存在」として

の方が、“生きている主体” なんだと捉え直して欲しい。


 出来損ないのままで「完全」。

 完全なままで「出来損ない」。


 わたしたちがお互いをそのように受け入れることができる

なら、社会の中で「自分を見せつけて認めさせよう」とする

過剰さが減ることだろう。そして、社会が落ちつく。


 そのような人が全然増えなくて、社会が落ち着かなくて

も、“わたしたちは「完全」なんだから、社会の中での「出来

損ないさ」は大したことじゃない” という意識で生きること

は、個人的に大きな意味を持つ。


 これは屁理屈です。けれど真実です。人間はそのような存

在です。


 どうぞ、社会はたしなむ程度に。




 

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