2021年11月20日土曜日

「全知全能」のあなた



 「昨日、ブログに書こうと思ったことがあったけど何だっ

たかなぁ?」と思いながら、ほぼ一日が過ぎたところで、や

っと思い出した。「全知全能」についてだった。

 ということで、昨日のこともすぐ忘れる人間が「全知全

能」について語ります。


 「全知全能」とは、〈 世界のすべてを知り、できないこと

は何も無い 〉ということだと解釈される。けれど昨日、違う

解釈が浮かんだんです。“違う解釈” と言うよりは、違う意味

付けを思いついたんですが、それは、〈 “知っていること” が

世界のすべて、“できること” は全てできる 〉ということでし

た。

 わたしたちは皆、「全知全能」なんです。


 自分の知らないことは、実質的に “自分の世界” には存在し

ていませんから、わたしたちはそれぞれに「全知」です。

 自分にできることが、実質的に “自分の能力” の全てですか

ら、わたしたちはそれぞれに「全能」です。


 「自分が知っていること」「自分ができること」が自分の

世界の全てです。そうではないですか?

 自分の世界で、わたしたちはそれぞれに「全知全能」で

す。


 「自分の知らないこと」が、別に有るわけではないので

す。「自分の知っていること」だけで、自分の世界は、い

ま、できているのです。まぎれもなく、それが全てなので

す。

 「自分にできないこと」が、別に有るわけではないので

す。「自分のできること」だけで、自分の世界は、いま、成

り立っているのです。世界は、それで全てです。


 「別に何かある」

 「他にもっと良いものがある」

 「もっと他にできることがある」


 わたしたちは誰も、そう思わされ、そう思い込み、今あ

る、自身の「全知全能」性を見失ってしまうのです。


 わたしたちは誰も、自分の知り得る範囲の、自分に出来得

ることで成り立っている、 “自分の世界” の中でしか生きるこ

とはできません。それは明白です。どう考えたってそれしか

ありません。

 ところが誰も彼もが、「自分の知らないことがある」「自

分にできないことがある」と思い、それを得ようとする。で

もそれは、 “自分の世界” に居ながら、他の誰かの世界のこと

ばかり夢想していることではありませんか? それは自分に失

礼です。自分を冒涜しています。


 私は私として「全知全能」です。

 あなたはあなたとして「全知全能」です。


 人の世の中で生きていると、“他に何かある” ような刷り込

みがなされます。そして下手をすれば、自分が「無知無能」

であるかのように思わされるはめになります。それを真に受

けてしまって「自分は無能だ」と思ってしまったとしても、

そう思ってしまうというのが自分の能力です。そう思ってし

まうことも自分の「全能」なんです。安心して「無知無能」

だと思えばいい。誰かの基準で「無知無能」だとしても、そ

のままで自分は「全知全能」なのです。


 「おまえは不完全だ」、「おまえはダメな人間だ」、と社

会がどれほど囁こうとも、自分に対して、謙虚に敬意を持つ

ならば、自分と自分の世界を見下すことはできないはずで

す。自分と自分の世界に無礼はできないはずです。


 私は私で「全知全能」です。

 あなたはあなたで「全知全能」です。


 “自分の世界” を生きるのは、後にも先にも “自分” だけで

す。

 自分の「全知全能」をちゃんと生きなければ、自分の世界

に申し訳が無い。


 何ができようができなかろうが、しあわせと思えようが思

えなかろうが、後にも先にも、それしかない “自分の世界” 。

それが「全て」。「全て」だから、それで完璧。

 どこかの誰かに聞かされた “お話し” も、自分が忘れてしま

えば、“自分の世界” から消えてなくなります。


 「思いっきり下手っくそに生きてる」としか思えないとし

ても、それは自分しか生きられない、空前絶後の “自分の世

界” です。そこに展開しているのは、自分だけの世界です。

 凄くないですか?


 わたしたちは、皆、「全知全能」なんです。






 

0 件のコメント:

コメントを投稿