今日電車に乗ったら、中高一貫校の広告があった。そこに
はこう書いてある。
〈 神から与えられた、君の才能を発揮する舞台がここには
ある 〉
「こんな凡庸で、薄っぺらで、無神経な宣伝文句をよく使
えるなぁ」と思いながら見ていた。この文を書いた人間と、
採用した人間には “才能が無いな” と思う。しかし、才能って
なんだ? 誰かに褒めてもらえる能力のことを言ってるんだろ
うけど、才能以外の能力のことは何だと思っているのだろ
う?誰にも褒めてもらえないような能力は、どのように扱う
べきなのだろう?
ありきたりで、取るに足りない、意識もされないような普
通の能力。当たり前のこと。
その当たり前のことの価値や意味を軽んじて、ぞんざいに
扱えば、必ず「神から与えられたもの」をムダにすることに
なる。だって、当たり前のことも「神から与えられたもの」
のはずだから。
〈 神から与えられた、君の才能を発揮する舞台がここには
ある 〉?
24時間、365日、いつでも、その時、その場所が、その人
にとっての舞台じゃないのか?
生きているということが、「神から与えられたもの」が発
揮されているということではないのか?
「才能」という言葉が不用意に使われることで、人と人と
の関わりと意識の中に何が生み出されるか? そんなこと考え
てみたことも無い人間が学校を経営する・・・。私は、子供
たちの将来を案じてしまう。
才能を発揮することを促され、求められ、「自分も特別で
あるべきだ」と思わされ、特別ではない誰かや、特別になれ
ない自分を軽んじてしまう人間になってゆく・・・。
ことさらに「才能を発揮する」ということが意識される社
会は病んでいるのではなかろうか? 「才能」などというもの
は、その時々に、それぞれに、自然に発露してくるようなも
のでいいのだと思うけどね。「才能競争」や「才能ビジネ
ス」をする為のものじゃないだろう。「神から与えられたも
の」ならば、人のアタマでこねくり回してひねり出したりせ
ず、神の意に叶うように使われるべきではないだろうか?
ある価値を前提にして人を見ると、「特別」というものが
生まれる。そういう前提がなければ、人は単に「別々」だ。
それぞれだ。
〈 神から与えられたものを、愛おしみ、味わう、“命” とい
う舞台がそれぞれにはある 〉
私なら十代の子にそう言いたい。
そんなことを言ってたら、社会で勝ち残れず、生きても行
けないかもしれない。でも、人は「才能競争」をする為に生
まれてくるのではない。そう思わされ、そう仕向けられてる
だけだ。
本当は、気楽に自分を生きる為に生まれてくるんだと思う
けど?
その結果として生きられなくなったとしても、自分を全う
できるのだから素晴らしいんじゃない? 訳の分かんない競争
に命を費やすよりずっとイイでしょうよ。
才能なんて無い。
まぁ有ると言えば有るけれど、それは単にオマケだ。
みんなそれぞれに全能なんだ。
お互いが、それぞれの全能に敬意を払えば、世の中もちょ
っとはマシになるだろう。
敬意を払えるはずだよ。だって、それは「神から与えられ
た」ものなんだからね。
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