2021年11月10日水曜日

才能なんて無い



 今日電車に乗ったら、中高一貫校の広告があった。そこに

はこう書いてある。


 〈 神から与えられた、君の才能を発揮する舞台がここには

ある 〉


 「こんな凡庸で、薄っぺらで、無神経な宣伝文句をよく使

えるなぁ」と思いながら見ていた。この文を書いた人間と、

採用した人間には “才能が無いな” と思う。しかし、才能って

なんだ? 誰かに褒めてもらえる能力のことを言ってるんだろ

うけど、才能以外の能力のことは何だと思っているのだろ

う?誰にも褒めてもらえないような能力は、どのように扱う

べきなのだろう?


 ありきたりで、取るに足りない、意識もされないような普

通の能力。当たり前のこと。

 その当たり前のことの価値や意味を軽んじて、ぞんざいに

扱えば、必ず「神から与えられたもの」をムダにすることに

なる。だって、当たり前のことも「神から与えられたもの」

のはずだから。


 〈 神から与えられた、君の才能を発揮する舞台がここには

ある 〉?


 24時間、365日、いつでも、その時、その場所が、その人

にとっての舞台じゃないのか?

 生きているということが、「神から与えられたもの」が発

揮されているということではないのか?


 「才能」という言葉が不用意に使われることで、人と人と

の関わりと意識の中に何が生み出されるか? そんなこと考え

てみたことも無い人間が学校を経営する・・・。私は、子供

たちの将来を案じてしまう。


 才能を発揮することを促され、求められ、「自分も特別で

あるべきだ」と思わされ、特別ではない誰かや、特別になれ

ない自分を軽んじてしまう人間になってゆく・・・。


 ことさらに「才能を発揮する」ということが意識される社

会は病んでいるのではなかろうか? 「才能」などというもの

は、その時々に、それぞれに、自然に発露してくるようなも

のでいいのだと思うけどね。「才能競争」や「才能ビジネ

ス」をする為のものじゃないだろう。「神から与えられたも

の」ならば、人のアタマでこねくり回してひねり出したりせ

ず、神の意に叶うように使われるべきではないだろうか?


 ある価値を前提にして人を見ると、「特別」というものが

生まれる。そういう前提がなければ、人は単に「別々」だ。

それぞれだ。


 〈 神から与えられたものを、愛おしみ、味わう、“命” とい

う舞台がそれぞれにはある 〉
 

 私なら十代の子にそう言いたい。


 そんなことを言ってたら、社会で勝ち残れず、生きても行

けないかもしれない。でも、人は「才能競争」をする為に生

まれてくるのではない。そう思わされ、そう仕向けられてる

だけだ。

 本当は、気楽に自分を生きる為に生まれてくるんだと思う

けど?

 その結果として生きられなくなったとしても、自分を全う

きるのだから素晴らしいんじゃない? 訳の分かんない競争

命を費やすよりずっとイイでしょうよ。


 才能なんて無い。

 まぁ有ると言えば有るけれど、それは単にオマケだ。


 みんなそれぞれに全能なんだ。

 お互いが、それぞれの全能に敬意を払えば、世の中もちょ

っとはマシになるだろう。

 敬意を払えるはずだよ。だって、それは「神から与えられ

た」ものんだからね。






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