2019年1月12日土曜日

「わかりたくない」のです



 ブログを始めて、まる二年が経った。



 このブログに書いている話はわかりにくい。

 わかりにくいどころか、「わからない」と言われても “ごも

っともです” と思う。なにせ、言葉で説明しづらいことや、

言葉で説明できないことを説明しようとしているんだから、

わかりにくくて当たり前だ(などと言って自分の文章力の無

さをごまかしているのかもしれない)。まったく独りよがり

で、無意味だと思われたりもするだろう。


 けれども、人が何かを説明されて「わかった」と思っても、

説明した側とされた側のアタマの中のものが同じかどうかは

わからない。怪しいものです。人は聞きたいことだけ聞いて

いるし、わかることしか聞き取れないものだから、「わかっ

た」なんて思うこと自体が、間違いかもしれない。


 それじゃあ、みんな何もわからないで動いているのかとい

えばそうでもない。言葉での約束事の上ではわかり会える。

「1+1=2」というような取り決めの上ではね。でもそこから

少しでも外れてくると、もうわからなくなる。

 考えてみれば、「説明する」ということは、新しく約束事を

作ろうとする行為なんですね。

 さらに言えば、「話す」ということ自体が、新しく約束事を

作ろうとする行為ですね。

 「行為」と言えば聞こえが良いけれど、むしろ「あがき」と言

う方が正解でしょう。エゴのあがきです。


 わたしたちは自分のまわりの環境を自分の都合の良いよう

に整えたい。それは人間だけではありません。他の生物だっ

て自分のまわりの環境を都合の良いように整えようとしま

す。巣を整えたり、寝床を整えたり、細菌ですら分泌物をだ

して自分を守ろうとする。人間も生物として当然そうする。

けれど、人間の場合はそれだけにとどまらない。そこにエゴ

が介入してくる。介入で済めばまだしも、エゴが生物として

の都合を無視してすべてをコントロールしようとする。わた

したちが話して、説明しようとするのは、自分のまわりの環

境を自分の都合の良いように整えたいからです。


 前に、「人がしゃべるのは自分の位置を確認したいから

だ」ということを書きましたが(『人は、なぜ喋る?』

2018/3)、そうやって自分の位置を確認した後、自分の理

屈で周囲を固めて、自分の立っている場所を安定したものに

する為に、自分の立ち方(考え)を周囲に了解させようとし

ます。説明し、納得させようとするわけです。まわりが自分

の考えを了解してくれれば安心ですよね?

 わたしたちが、話し、説明するのは、自分の為の “地盤改

良工事” のようなものです。


 これらは人間本来の働きではなくて、エゴの働きです。

 エゴはわたしたちの不安から生まれ、その明確な存在理由

も持たないので、エゴ自体が不安定なものです。なので、エ

ゴが求めるのは常に “自身の安定” です。その為にはなりふ

り構いません。時として、身体(命)まで投げ打ちます。自

爆テロなどはその典型ですね。


 エゴは、そのままでは安定出来ない存在です。そしてエゴ

は「思考」によって存在していますから、言葉によって自分

を世界に位置付け、その足元を固めたいのです。だから、隙

あらば自分の立場で他人を説得しようとします。

 その話がたとえ世界の平和であろうが、環境問題であろう

が、好きなスポーツのことであろうが違いはありません。人

が自分の考えを話し、誰かに理解されようとか、説得しよう

とするのは(大袈裟な事ではなく、「靴の脱ぎ方」のような

些細なことまで)、エゴが安心したいからです。このブログ

だって例外ではありません。


 話す方は自分の都合で話しているし、聞く方も自分の都合

で聞いているだけなので、わたしたち人間の「話し」という

ものは、ほとんどの場合、理解し合えないままに終わりま

す。

 こんなことを言うと悲しくなってしまうかもしれません

が、わたしたちは人と話をしても「わかったつもりになって

いる」だけでしかありません。


 本当に「わかる」、「わかり合える」という事は、そうそ

う起こることではありません。起ったとしても、それは言葉

で直接「わかる」のではなくて、言葉をきっかけに感覚で

「わかる」のですね。そして、その「わかる」ことはエゴと

は関係のないことです。


 普通、「わかった」という時は、エゴの打算によるもので

す。

 誰も、他人のエゴの都合なんてわかるつもりはありませ

ん。そんなものをわかったら、自分のエゴの立場が制限され

てしまいます。せいぜい、相手のエゴの都合と自分のエゴの

都合の利害関係が一致する時に、「同じだね」という事にす

るだけです。都合が良ければ「手を打つ」だけの話です。

「わかり合った」わけではありません。


 人の話が本当に「わかる」というのは、自分を変えてしま

う出来事です。

 その時までの自分のエゴに、“風穴” が空くことです。

 その “風穴” から、人は本来の自分を一瞥します。

 世界の本当の姿を一瞥します。

 時には(運が良ければ)、その一瞥がその人の生き方を支

配してしまいます。

 「本来の自分」、「本当の世界」を希求することが、生き

ることの中心になってしまうのです。私が、そうです。
 

 私が辿っている道が正しいのかどうかは、私にはわかりま

せん。

 右往左往し、袋小路に迷い込んだり、ドブにハマったりし

ているのは間違いないでしょうが、「方向は間違っていない

だろう」と思っています。もし、それも間違っていたら、人

生の最後に『残念でした!』と書かれた立札を目にして、

「ああ・・・・」と力のないため息をついて終わるだけのこ

とです。


 私の事はともかく、「わかる」ということは、そのように

“身体” というか “心” の働きによるものであって、言葉によ

ってエゴが得られることではありません。

 エゴに可能なことは、どこまでいっても「わかったつも

り」でしかありません。「わからせたつもり」でしかありま

せん。だって、エゴは自分の都合の範囲内のことしかわかり

たくないからです。自分に “風穴” を空けるようなことは受

け入れません。そのようなことは理解できない(理解しな

い)仕組みになっています。

 自分に都合の悪いことを聞かされると、「納得のいく説明

をしろ!」と説明を求めますが、もともと自分は納得する気

はありませんから、何を聞いても「それじゃぁ説明になって

いない!」と突っぱね、「説明できないこと」は「必要ないこ

と」、「間違ったこと」という判断を下して、自分を守りま

す。

 エゴがやっているのはそういうことですが、当のエゴはそ

んなこと考えもせず、自分の立場をわからせようとして、他

のエゴとの間で「わからせ合い」を繰り広げます。

 親子、兄弟、恋人同士、仕事関係、宗教対宗教、国と

国・・・。世界のすべての揉め事はそれによります。

 「どうにかならないものか・・・」と思いますが、どうに

もなりそうにありませんね。


 どうにもならないのに決まっているのに、「このブログを

読んだ人のエゴに、小さな ”風穴” を開けられないものだろ

うか」と思ってこんな事を書いています。


 それなりに落ち着いている人に無用な揺さぶりを掛けるの

は、単に迷惑なだけかもしれませんが、こんな話を何とな

でも「わかってしまう」としたら、それもご縁です。幸か

幸か知りませんが、ご縁を大切にしていただければと思う次

第です。



 (・・・という話ですが、これも自分の足元を固めようと

る、私のエゴの「あがき」でしかないのでしょうか? 笑

ておくしかないですね・・・。ところで、この話わかりま

した?)



 


 

0 件のコメント:

コメントを投稿