2018年12月16日日曜日

「絶望」しましょう。


 いい天気になった。

 寒いけど、ちょっと散歩でもしようかなと思わせる陽射し

が窓から射し込んでいる。平和なものだ。

 世の中ではさまざまなゴタゴタが起っているだろうし、地

獄のような光景が今まさに展開している場所もあるだろう

に・・・。



 人間から見れば、世の中は理不尽で不公平なことばかり

で、今たまたま笑っていられる人間も、それが明日まで続く

かどうかも定かではない。わたしたちはそれを知っているか

ら、すぐに不安になる。



 中にはあまり不安にならない人もいるけれど、そういう人

は不安を別のものにすり替えていたりもする。不安を感じる

のが嫌なので、不安が湧き上がってくるとそれを怒りに変換

するとか、薬物や酒やギャンブルや食べ物やスマホやさまざ

まなものに依存したり。



 明日どころか、次の瞬間に何が起こるかも分からない。

 なにも、事故や災害や事件の事だけを言っているのではな

くて、そばに居る人が急に不機嫌になるかも知れない。

 「そんな程度のこと・・」と思われるかもしれないけれ

ど、そばに居る人が不機嫌になるというのは、人の脅威の中

でも最も大きな事だ。大抵の人はそんなふうには意識してい

ないだろうけどね。災害や事故や病気などの方を大きな脅威

だと思っていることだろう。



 けれど、誰しも自分の事を振り返ってみればすぐに分かる

ことで、わたしたちを不安にし、悩ませる最も大きなもの

は “身近な人の不機嫌” です(たまたまそばに居る見知らぬ

人も含まれる)。人生の主要な問題はそれです。

 “身近な人の不機嫌” ほど、日常の中で人にまとわりつい

て、人を不安にさせるものはない。


 厄介なことに、不機嫌になって周りの人を不安にさせる人

が不機嫌になる原因は、その人が感じる不安です。

 不安が不機嫌を生み、その不機嫌が別の人の不安を生み、

その不安が不機嫌を生み・・・と、終りの無い連鎖が人の間

に拡がって行く・・・。たとえ今、そばに居る人が不機嫌で

なくても、その人が不機嫌になる可能性を感じるだけで人は

不安になってしまう。

 過去の経験から未来の出来事を想定して、実際には何も起

きていないのに、勝手に不安になってその不安が周りに拡が

ってしまう。



 考えてみれば本当にバカな話ですが、人がその習癖から自

由になる事はほとんど不可能です。これは恐るべきことで

す。



 不安を感じるのは、生物としての本能的な生存戦略でしょ

うが、そこに「思考」が入り込むと、人は必要のない不安を

覚え、必要のない行動を執り、必要のない問題を自ら作り出

す。そして、実際に殺人が起きたり差別や迫害が起きたり

し、戦争まで起こる・・・。ほとんど救いようがありませ

ん。



 不安を生物としての身体的レベルにとどめておければ、事

はそう大きくもならないのでしょう。その時その時のその場

所での問題にとどまるでしょうからね。しかし、わたしたち

にはアタマがあって、アタマ(思考)はその発生の瞬間から

不安を生み出す。なぜなら、アタマはそれ自身の存在理由も

存在意義も分からないので、自身の存在自体が不安だからで

す。

 不安はわたしたちのアタマにセットになっているのです。


 どんなに文明が進んでも、学問や科学が精緻になっても、

それらを生み出し発展させるものは、わたしたちのアタマ

(思考)なので、それによって人々の不安が解消されること

はない。せいぜい、不安を今ある場所から目につかない場所

へ移動したり、隠したりできるだけです。

 科学や学問やそれが生み出した物が、人々の不安を解消

し、安心や平和をもたらすことは不可能です。

 むしろ、アタマの活動を少なくさせることでしか、不安を

減らすことはできない。それゆえに世界から宗教が無くなる

ことはない。


 神や仏という絶対的な存在から示された(らしい)、教義

やしきたりに則ることによって思考を停止すれば、その中で

は不安を感じずに済むからです。けれど、それは結局のとこ

ろ不安のすり替えや隠蔽、または依存でしかありませんね

(『宗教は民衆のアヘンだ』という言葉もありますね)。文

化が人に与える他のものと、本質的な違いはありません。

 わたしたちが不安から解き放たれることはないのでしょう

か?


 いいえ。時折、宗教だけでなく、学問や科学や芸術の世界

でも、それを突き抜けて思考の呪縛から逃れ、不安から自由

になる人が出て来ますね。彼らは何故突き抜けることが出来

たのでしょう?
 

 〈絶望〉したからでしょうね。


 “平穏” や “永続的な幸福” を求めて、宗教や学問などを突

き詰めて、突き詰め切ったけれど、そこには平穏も幸福もな

かった。思考の極限まで行っても、思考には不安がセットに

なっていますからね。そして、絶望したのでしょうね。


 ところが、その時に大転換が起る。

 それまでの自分の人生を賭けて、やれることは全てやっ

た。にも関わらず、結果は出なかった。もう自分には何も残

されていない。もう何も望みは無い。絶望・・・。

 そうして、アタマがすべての望みをあきらめた時、自身の

無力さを心底実感した時、思考は止まる。

 思考が停止すれば、同時に不安も止む。


 「あっ、そうだったのか」


 自分は、結局何処にも行けなかった。

 何処に行く必要も無かった。 

 何処に行こうと、自分がいる所は、常に、ここだった。


 何処かへ行こうとするのが間違いだった。

 何かを得ようとするのが間違いだった。

 何かになろうとするのが間違いだった。
 

 アタマという詐欺師に振り回されていただけだった。


 《 真のしあわせは〈絶望〉の果てにある 》


 わたしたちは、“上手に〈絶望〉する” 必要があるようで

す。 


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 アタマは、すぐに故障する家電を売りつけておいて、修理

代を稼ごうとする悪徳業者のようなものですね。

 「もったいないから」「困るから」と、すぐ故障する家電

を使い続けても、自分のエネルギーを吸い取られるだけで

す。それが無い生活を検討する方が良いでしょう。

 わたしたちの暮らしは、本当は必要ないものであふれかえ

っています。物に限らずですけど・・・。



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