2018年10月7日日曜日

〈損〉とはなにか?


 仮想通貨のトラブルが、またニュースになっているけれ

ど、まぁ大儲けしている人間もたくさん居るのだろうから、

まだまだパーティは続くのだろう。私には全く関係が無い

が。



 人というものは面白いもので、「他人が得をする事は自分

の損だ」と感じる人がいっぱい居ます。

 同僚の給料が少し上がったら、「自分は損してる」と感じ

たりする。

 同僚の昇給分が自分の給料から回されて、自分の給料が減

ったというなら、確かに損かもしれないが、自分の給料はそ

のままなのにもかかわらず、「自分は損してる」と考える。

 いやはやなんとも、ご苦労な性分ですよね。

 関係無いのにね。



 そもそも「損」とは何か?

 「損」というものは、ある “こと” を「当然あるべきも

の」として考える時に、初めて意識される概念です。自然に

存在しているものじゃないし、誰にでも共通の事でもない。

遠慮なく言ってしまえば「妄想」です。さらに言えば「慢

心」です。

 いったい何の必然性や妥当性があって、「当然あるべきも

の」などという考えが出て来るのでしょう?

 「こうあるはずだ」あるいは「こうあるべきだ」という勝

手なストーリーを自分の中に作り上げて、実際には存在して

いない状況と比較して、不服を申し立てる・・・。

 「性格わる~う・・」。



 ほとんどの人が、「損した」とか思うことがあるでしょう

から、ほとんどの人は「性格わるい」わけですね。まぁ〈ア

タマが悪い〉わけなんですけども、〈損〉っていったいなん

でしょうね?



 〈損〉というのは、「何かが欠ける」ということだと思っ

ていいんでしょうが、普通一般に「損」と言われる事が本当

に「何かが欠けて」いるのでしょうか?



 私が百万円で買った株が、値下がりして八十万円になって

しまったら「損した!」と思うでしょうが、欠けた二十万円

は誰かの為になっているのですから、「誰かに貢献した」と

考えることも出来ますね。仮に、私が何かに二十万円寄付し

たとしたら(出来ませんが)、私の懐から二十万円が欠けた

わけですが、私は「損した!」とは思いませんね。むしろ、

人の役に立てるという自己肯定感から「得した!」という感

覚を持つ事でしょう。〈損〉とはいったい何でしょう?



 《〈損〉とは、“幸運” が自分をスルーする事 》というこ

とのようです。

 そして、その結果を受けて不愉快に感じた時に、わたした

ちは言います。「損した!」と。

 わたしたちは、「自分に “幸運” が来るべきだ」と思って

いるのです。 そのように思っているからこそ、《 “幸運” が

自分をスルーする事 》を不愉快に感じるわけですね。

 しかし、なんだって「自分に “幸運” が来るべきだ」なん

て思っているのでしょう? 何の根拠や必然性があるという

のでしょうか?



 いつも卵を買うスーパーで卵を買って、たまたまその後に

別のスーパーに行ったら、そっちの方が卵が安かった。

 「損した!」



 よくある事ですが、その心情の裏には「自分に “幸運” が

来るべきだ」という “驕り” のようなものがあるのではない

でしょうか?



 自分は “何様” でしょう?

 なぜ、「自分に “幸運” が来るべき」なのでしょう?

 そもそも “幸運” とは何でしょう?

 「損した!」って言うけれど、いったい何が欠けたのでし

ょう?



 わたしたちは、自分が “何者” かも知らないし、何をもっ

て “幸運” とするかも定まっているわけでもないし、〈損〉

が何かもよく考えたことが無い。

 不愉快に感じた出来事に対して、ほとんど条件反射で「損

した!」というリアクションを取るだけですね。

 本当は、そのまま放っておけばいいだけの事に、ネガティ

ブな反応をするように条件付けられているだけなのでしょ

う。



 “幸運” とは、〈幸福〉を感じやすい巡りあわせのことで

す。

 “自分” とは、社会の関係性の中で持たされた〈自己イメ

ージ〉で、常に「肯定感」を持ちたがっている “欲求” で

す。

 わたしたちは、 “幸運” であることによって、「社会の関

係性の中で肯定された存在である」というイメージを持てる

ので、“幸運” にスルーされると「肯定されていないんじゃ

ないか?」という欠損感を抱きます。つまり「損してる」

と・・・。

 しかし、それは「イメージ」でしかありません。

 〈損〉なんて、存在しません。

 妄想に過ぎません。

 逆に、〈得〉も存在しません。

 のぼせてるに過ぎません。



 どんな出来事も、単に出来事です。

 それは、本質的には決まった意味や価値を持ちませんし、

後にどんな影響をもたらすか分かりません。

 「損した!」などと感じて、その出来事に振り回されてし

まうことこそ〈損〉でしょうし、出来事に振り回されない自

分でいられることが出来るなら、それこそが〈得〉でしょ

う。



 いままで、何度か紹介していますが、曹洞宗のお坊さんだ

った沢木興道という人が、こんな言葉も残しています。

 《「俺、ツマンナイ!」と思うことが

              一番「ツマンナイ」!》



 今年の、アメリカの “長者番付” で、ビル・ゲイツを抜い

て、AmazonのCEOのジェフ・ベゾスががトップになった

ようです。

 そりゃぁ、それだけ金があれば何でも出来るでしょう。

 何の必要もありませんが、秘密裏に私を殺すことだって容

易でしょう。

 けど、何が出来たって、誰に誉められたり尊敬されたり憧

れたりされたって、病気もするし、しわくちゃになってやが

ては死んでしまう “ただの人” です。

 「損だ! 得だ!」と、走り回って興奮しているうちに人

生は過ぎ去り、命は終わります。(まぁ、それも運命です

が)



 何が〈損〉で、何が〈得〉か。

 まず、それをしっかり考えなければ、何をしようと、何が

出来ようと、〈社会〉というエゴの総体に命を食い潰されて

終わるだけでしょう。



 「ちょっとでも得しよう」

 「ちょっとでも損しないようにしよう」

 そう思って、いつも辺りを見回して、鼻をヒクヒクさせて

いるのは、みすぼらしくて、本当の意味で “不幸” なんじゃ

ないかな。まぁ、貧乏人は仕方がない部分があるけどね。

(自己弁護です)



 

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