2023年7月23日日曜日

「自分らしさ」に惑わされて



 (7/16に書いたものですが、少し書き足したので、
              
  改めて公開し直しました)

 先日、タレントの ryuchell が自殺したことで報道が続い

ている。ブログでこの話題には触れないでおこうと思ってい

たのだが、報道の仕方が気になったのでやっぱり書くことに

する。


 そもそも私は ryuhcell を好きでも嫌いでもないし、活動

に関心も無いのだけど、彼がテレビに出だしたときから、な

るべく見ないようにしてきた。見るのが辛いのだ。

 最初に見た時から「かなり精神的に不安定な感じの子だな

ぁ」と感じたし、「(自分を装って)すごく無理してる感じ

だなぁ」と思っ  人を欺いてるというような意味では無

いですよ  その「無理してる感じ」が痛ましいので、見る

のが辛かった。なので、この度の事を最初に知ったとき「や

っぱりなぁ・・」と思ってしまった。


 彼の生い立ちだとか、身体的・内面的にどういう人なのか

を私は知らないけれど、私が知り得る範囲での彼の言動から

思うのは、“「自分」が分からないのでとても不安で怖い” と

いう人なんだろうなということ。

 髪型や髪の色をどんどんと変え、子供を儲けたり、SNS で

積極的に意見を発信したりという生き方を見てると、必死に

なって「自分を探してる」ように見受けられた。

 「これでもない。これでもない。こうでもない。これも違

った・・」

 そんな風に、自分が落ち着ける在り方を求め続けていたの

ではないかと思う。そして、「これでもう大丈夫」と思える

「自分」を見つけたと思ったが、やはり何かが違う・・・。

「もう、疲れた・・・」。それが自殺への経緯なのではない

かと想像する。


 この度の報道で、彼が「自分らしさ」や「自由」という言

葉をやたらと使っていたことを知った。そして、そのような

姿勢を評価するコメントを、メディアや同じ業界の人たちが

次々と発信するのを見ていて、「違うんじゃないのか?」と

思ったのが、この話題に触れる理由です。「自由で、自分ら

しく生きてる人が、自殺するわけないだろう」と思うので。


 「自由」や「自分らしさ」を発信し続けて来た若者が、自

殺をする。なんでそうなるのか? 誰もそのことを考えようと

していない。


 「自由」や「自分らしさ」を求めることや「自由」や「自

分らしさ」の意味するところをしっかりつかまえてみようと

もしないまま、「それは価値あること」のような既成概念を

疑いもせずにモノを言う人たち。そのような人たちの取り巻

く社会で、「自由」や「自分らしさ」をいくら探したっ

て、“最終解” のようなものは見つからないだろう。


 「これが自分だろうか?」

 「これが自由だろうか?」


 探す前に「自分」や「自由」が何なのかを知らなければ探

せないだろう。


 「自由」=「世の中で気の済むようにできること」

 「自分らしさ」=「気の済むようにできて、なおかつ世の

中から肯定されている状態」

 そういうのが、彼やいまの日本人の思う「自由」と「自

らしさ」なんだろうと思う。いまの日本人が特別なわけで

なくて、昔から人というのはおしなべてそうなんだろうと

うけど、人は「自由」や「自分らしさ」を世の中との関わ

の中に探そうとする。彼が SNS などでことさらそういう

とを発信したのも、そういうことだろう。けれど、世の中

は「自由」など無いし、「自分らしさ」などというものな

は、そもそも気の迷いみたいなものだ。「自分らしくない・

・・」と嘆いたりすることも、その人らしさではないのか?

 「自分らしい」とか「自分らしくない」とか、あるいは何

も思わないとか、その時々にその人がそのように感じたり振

る舞ったりするのは、その人ならではのことなのだから、何

をしたって、それが「自分らしい」はずだろう。観念的でア

タマでっかちになっているから、悩まなくてもいいことに悩

むことになってしまう。

 「自由」でなかろうと、「自分らしく」思えなかろうと、

そんなことはお構いなしに、心臓は動いている。呼吸をして

いる。その「自分」に目を向けたことがあるのか? その「自

分」を慈しんでみたことがあるのか? 「自分らしさ」を求め

ることは、いまここにこうして在る「自分」に対して失礼な

のではないか?


 別に ryuchell を批判する気など無いのです。これまでも

書いてきたように、自殺した人を否定もしない。ただ自殺自

体は無い方が良い。だから、こういう事があると、ましてや

若い人だと「もったいない」と思う。仕方がないことなんだ

けどそう思う。そして、それを語る人たちの紋切り型の言い

分に不快感を感じてしまう。「本気で考えてないだろう?」

と。というわけで、ついこんなことを書きたくなってしま

う。


 『「自分らしさ」は自分じゃないでしょう』(2019/2) 

か、『本当の自由。』(2019/2) とか、いままでも書い

てきました。私はそういう人間だから、彼のように「自由」

や「自分らしさ」にこだわった人が自殺したりすると、なん

とも言えない気持ちになるのです。

 世の中の見せる幻想。世の中に刷り込まれた焦燥・・・。

それが、人を不自由で重苦しい観念の中に閉じ込める。


 これまで生きて来た自分。いま、いまのように在る自分。

これから、これからのように在る自分。全部自分なんだか

ら、どの一瞬どの一カケラを取っても「自分らしい」んです

よ。自分で気にいるかどうかじゃないんですよ。だって、そ

れは紛れもなく「自分」なんだから。


 紛争でも起きて、敵に捕まって、独房に閉じ込められて、

何日後かには殺されるのかもしれないというような事になっ

たとしても、でも、その狭い独房で、何一つしたいことがで

きないままで、それでも「自由」なんですよ。それは、普通

の生活を送っているわたしたちが、いずれは死ぬ存在だとい

うことを考えれば理解できるはずです。

 わたしたちはみんな、それぞれのさだめの中に閉じ込めら

れている・・・。けれど「自由」なんです。「自由」とは、

いま生きていることだからです。そしていま生きている「自

分」は間違いなく「自分」です。他の誰かであるはずがな

い。いま生きている「自分」の他に、「自分らしい、本当の

自分」など有るはずがない。

 「一週間後の自分」「一年後の自分」「30年後の自分」

は「今の自分」とは違う。けれど、それぞれにその時々の 

“いま” 、「自分らしい自分」です。


 どのように人生を送るのか、その人生がどのような幕引き

迎えるのかも、わたしたちは選べません。気分良く、気軽

に生きられるに越したことはないと思うけれど、それも選べ

い。なに一つ「自分」の自由にはならない。

 けれど、それに気付いた時、それを受け入れられた時、人

は自分が自由だと気付くのです。残念ながら、そういう必然

が無ければそうなれないのですが・・・。


 ryuchell には、そういう必然が無かった。

 それは良い悪いなんかとは関係ない。自殺したから悲しい

人生でもない。

 自殺してしまう人生なんだから、辛かっただろうとは思

う。それは気の毒な事だと思う。しかし、それが彼の人生な

らそれでいいのだ。ただ、それを見た他の人が何を考える

か?

 ひとりの若者が自ら命を絶ったのだ。そのことを考え、語

るなら、真剣に、生きることや命の底まで考えてもらいたい

のだ。ありきたりなお話しを聞かされるのはもうたくさん

だ・・・。




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