2023年7月2日日曜日

ヤマモモを知っている? ~文化の消える日~



 今日は天気が良くなったので、昨日のブログの最後に書い

たように、近くの山へヤマモモの実を採りに行った。

 ヤマモモという木は、東日本の人にはなじみが無いものだ

ろうけど、西日本の暖地には普通に生える木で、特に海に近

い所に多くて珍しいものではない。その実は酸味と甘みと独

特のヤニ臭さのようなものがあって美味しい。小さい頃にそ

の味を覚えて、大人になってからは、ヤマモモの実を採って

食べるのが毎年恒例のようになっている。

 今日採ったのは数年前に見つけたヤマモモの木の実で、普

通のものより実が大きい。違う品種ではなく個体差によるも

ので、こういう木が稀にある。和歌山出身の友達の I が「そ

ういうのは、和歌山では “ミズモモ” という」と言っていた。

粒が大きく、ジューシーだからだろう。


 持ち帰って塩水で洗い、食べ始めるとしばらく手が止まら

なかった。夏の味覚だ。けれど、東日本の人にはなじみがな

いのは当然としても、今では50歳以下の関西人では、ほと

んどヤマモモなど見たことも食べたことも無いのではないだ

ろうか? 

 四国あたりで栽培もされているようだけど、量が少ないこ

とと、あまり日持ちがしないことなどで、普通のスーパーや

果物屋には出回らない。私も店頭で見たことはない。高級青

果店などに並ぶ程度なんだろう。木自体はありふれたものな

んだけどね。


 今日の収穫

 美味しかった!

























 ・・・話は変わって・・・

 もう20年ぐらい前のことだけど、山歩きに行って、山頂

から谷筋のコースを降り、麓の河原で一休みしていた。

 そこは少し広くなった河原で、休日なので沢山の家族連れ

などが来てバーベキューをしていて、小中学生も多く走り回

って遊んでいた。

 木陰に座って周りを見渡すと、あちこちにクサイチゴやキ

イチゴ(どちらも野イチゴの仲間)が鈴生りに生っているの

に気付いて、「これだけ生っているのは珍しいな!」と驚い

たのだけど、誰一人として、食べるどころか関心さえ示して

いない。これだけ沢山の人が何時間も前から来ているのに、

実が採られたようにも見えない。

 子供たちはもちろん、親たちでさえ、それが食べられてな

おかつ結構美味しいということを知らないのだろう。知って

いても、そんな河原に生えているようなものを口にするのは

危ないと思っているのだろう・・・。私はそういう風に理解

して、その場をあとにした・・・。


 私は毎年、ヤマモモであるとか、野イチゴだとか自然薯

(ヤマイモ)のむかごであるとかタラの芽だとか、アケビや

ナツハゼの実なんかを季節ごとの楽しみにして来た。

 そういうものは里山のような環境の所や、都市部の河川敷

などでも見られるもので、特に珍しいものではない。昔か

ら、近所の人や年長の子供から下の子へ伝えられる、文化の

一部だったはずだけれども、そういうものはどうやら途絶え

ようとしているようだ。


 文化とはどういうものだろうか?
 

 「文化」。字面からすれば、「文にする(化す)」という

意味になる。今風に言えば「情報化する」ということにな

る。

 「どの木の実や山菜が食べられるか」とか、「いつ採れ

る」とか・・・、「木を伐る時にはどうするか」とか、「ど

んな用途の時にはどう加工するか」とかいうような情報を受

け継いで来たのが「文化」だろう。

 それが、暮らしに余裕が出て来て都市化してくると、“余

裕” の部分での楽しみが「文化」として受け継がれるように

なった。芸術、娯楽、宗教・・・。けれど、そこにはまだ、

自然の様子を見ながら、それに合わせて行かなければ生きら

れないという事実があり、「文化」も、その影響を色濃く反

映するものだったろう。しかし、現代は違う。


 日本のような先進国では、日常的には、ほとんど自然を無

視して衣食住を維持できるようになった。

 直接自然に対峙する “第一次産業” の従事者はともかく、多

くの人たちは、生活に必要な物を、生活に最適な形に準備さ

れた状態で手に入れることができる。「自然との折り合いを

付ける」「自然を上手に利用する」というような意味での

「文化」は、ほぼ消えてしまったようだ。


 そして今の「文化」は、“自然の性質を言葉にして伝え残

す” という「文になっていないものを、文にする」ようなも

のではなくて、ネットが象徴するように、「すでに情報

(文)になっているものを、組み合わせたり改変したりし

て、二次情報にする」ものになっているようだ(すでに、そ

れを AI がやっているしね・・・)


 今の「文化」は、人間と人間の間だけ、アタマの中のグル

グル回しのやり取りだけになっていると思えるけど、違うだ

ろうか? そういうものに、果たして古来からの「文化」とい

う言葉を充てていいのだろうか? 


 「文化の内容が変わって、それの何が問題か?」そんなこ

とを思われるかもしれない。「いや、大きな問題ですよ」と

私は思う。

 「文化」というものは、わたしたちの「意識」「思考」

が、人が暮らす自然環境と、“自分たちのからだ” という自然

環境との間で、折り合いを付けることで生まれてきた「知

恵」と「遊び」だったはず。ところが、現代の「文化」はア

タマとアタマの間で折り合いを付けて遊ぶだけのものになっ

ているだろう。その “折り合い” の付け方が間違っていたとこ

ろで、衣食住に影響は無い(閲覧回数の急減したYou Tuber 

なんかは困るんだろうけど)。

 それは、実質的な「生きること」から「文化」が浮いてし

まっていると言える。「文化」は人間の妄想の中だけのもの

で、さらに “情報化が容易な部分” だけを扱う、徹底的に「お

遊び」に終始するものになっているのだろう。もはや「文化

(情報にすること)」という過程は無いので、違う表現が必

要だろう。


 自分たちが生きている環境や、自分自身のからだという、

この世界の実質をなおざりにして、“現代の文化” は、アタマ

とアタマのグルグル回しを加速させて行くのだろう。


 「文化」は消えたのか? また息を吹き返す時が来るのだろ

うか?

 「文化」を消し去ろうとしている現代人は、「何化」する

のだろうか?


 養老孟司先生が「脳化」という表現をされてから30年以

上経ったけれど、現代人はいよいよアタマの中に閉じこもっ

て行くのだろう。
 

 私は、「文化」が途絶えたしても、それはそれで別にい

まさら困ないけれど、わたしたちのアタマが表現できるデ

ィテールと、構成できるパターンは、この世界が持つそれよ

りも情ないほど貧弱だ。アタマのグルグル回しが作る世界

の先行きは、とても暗く短いと思う・・・。それはたぶん、

正解だろう。

 ヤマモモを知ってる?


 
 

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