2023年7月9日日曜日

苛酷な人生



 こういうブログを書いている人間なので、NHK の『こころ

の時代』をよく観る。先日観たのは、シリアの難民を撮り続

けているフォトグラファーの女性で、内戦以前からシリアを

取材していて、夫はシリア人。日本で家族4人で暮らしてい

るが、シリアで内戦が起きてからは、トルコなどを尋ねて、

難民となったいくつかのシリア人家族を撮り続けているそう

だ。


 話を聞いていて、彼女が、難民となる前のシリア人と、難

民となった後のシリアの人たちと関わる中で抱いた想いに共

感することがいくつもあった。


 私は、シリアのような国の人たちとも、難民となった人た

ちとも関わったことはないし、紛争を経験したことも、中東

のような環境で暮らした経験もない。なのに、なぜ共感を

えるのか? それは、この日本の社会では違う意味で紛争が

いていて、ある意味、私も「難民」だからだろう。


 彼女のシリア人の夫は、シリアで内戦が始まったころ、ち

ょうど兵役で政府軍にいたそうだ。そして、心ならずも市民

を弾圧する立場に立ってしまったという。その時の体験につ

いて彼は何も話さない。話せないことがあったのだろう。そ

の後、家族とトルコへ逃れた後、彼女と二人、日本へ来て暮

らすことになった。


 日本へ来て二年間、彼はノイローゼ気味になり家に閉じこ

もってしまうことになってしまった。その後、働く決意をし

たが、仕事を転々としてしまう。ある仕事では、始発電車で

出かけて、終電で帰ってくるという日々が続き、彼はこう言

ったという。

 「シリアで政府軍にいた時の方がましだった・・・」


 彼女が難民キャンプを取材していた頃の話では、難民キャ

ンプでは電気・ガス・水道・衣類・食事は最低限用意されて

いたので、そこにいれば生きてい行けるのに、紛争の続く、

危険なシリアへ戻る人が多くいたという。その理由が「ここ

にいれば生きていられるけれど、ここには生活が無い」とい

うことだったそうだ。

 そういった話を聞いて、あらためて思う。今の日本のよう

な経済先進国は、違う種類の紛争の只中にあり、多くの人が

難民となっているのだと。


 ニートや引きこもりや、鬱・パニック障害などで社会から

外れてしまう人々。それは「難民」だろう。

 もちろんすべてとは言わないが、「軍にいた時の方がマシ

だった」と思わせてしまうような社会の状況があることを、

「そんなに特殊じゃない」とわたしたちが思えるというの

は、この社会は何かを大きく間違えているだろう。


 これまでにこのブログの中で、コロナがらみの話などで、

「生物学的な生存は、生きることではない」という意味合い

のことを何度も書いたけれど、難民キャンプに暮らす人が言

ったように、「生きられるけど、生活が無い」ような状態

は、やはり「生きている」とは言えないのだろう。
 

 この国では、ふたこと目には「安心安全」。

 安全で、明日の暮らしを心配する必要は無く、豊かで便利

な生活が出来ていても、心の中では多くの人が闘争や束縛に

疲れ、自身の本来あるべき姿が分からない。多くの人がそれ

を既製の価値観でごまかし、娯楽でやり過ごしている。生き

られてる?


 別に、シリア人の価値観が正解で、いまの日本人の価値観

が間違いだと言うのではない。人が比較の世界に生きる限

り、程度の差はあれ、生きることからはぐれるだろうから。

ただ、日本人は生きることを大袈裟に飾り過ぎ、かつ大事を

取り過ぎているだろう。そのような感覚があるからこそ、

NHK の制作者もこのような番組を企画したはずだ。


 「難民」を生んでしまうような、豊かさ・安心・安全とは

何なのだろう?


 あからさまな苛酷さを生きねばならない人がいる一方、ぼ

やかされた苛酷さを生きていながら、それに気付かない人も

いる。いずれにせよ、“お話し” の中に本当の「生」は無い。

 そして、苛酷さはいつも “お話し” から生まれる。



 

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