2018年3月21日水曜日

「どうでもいいな」。


 この頃、テレビを観てもあんまり面白くも無いが、私が物

心付いた時には、もうテレビが有り、テレビの無い生活  

自分の家にということではなくて、世の中に  というもの

が想像できない。テレビもラジオも無い世の中は、いったい

どういうものだろうか? ちょっと、リアルなイメージは持

てないですね。
 

 テレビやラジオ、そしてインターネットの存在価値という

ものは、単なる「情報の共有」「情報の操作」「情報の混

乱」で終わってしまうのか? 

 人間の、本質的で有益な「共感」の伝播に、資することは

出来ずに終わってしまうのだろうか?

 テレビもネットも、その中身のほとんどは、どうでもいい

ことばかりで(このブログがどうなのかは考えない事にす

る)、「これに何の意味がある?」という想いも持つのだけ

れど、実のところ、この世界は基本的に「どうでもいいこ

と」で出来ている。


 私が死のうが生きようが「どうでもいい」だろうし、ハリ

ウッドセレブが何をしようが「どうでもいい」だろうし、何

処かの国家が崩壊しようが「どうでもいい」だろうし、人類

が滅びようが「どうでもいい」だろう。

 「どうでもいい」か、「どうでもよくない」かは、個人の

アタマの中にある執着であって、この世界は、わたしたちに

関係なく変化してゆく。


 悲しいかな、自然の前には、人間は「どうでもいい」(特

別ではない)存在である。その “「どうでもいい」存在” で

ある人間がしていることが、「どうでもいい」ことなのは当

然です。

 人間が、「自分は “どうでもいい存在” である」と考え

事は、普通は虚しい、悔しい・・。けれど、自分を「どう

もいい」と思える事は、福音でもある。

 「自分も、世の中も、どうでもいいんだ」と思えたら(投

げやりではなくてね)、こんなに気が楽で、自由なことはな

い。


 実際に、世界はすべて「どうでもいい」というのが真実で

しょう。善悪や、軽重や、是非といった価値判断をして、わ

たしたちのアタマが、自分の都合で “もったい付けてる” だ

けのことです。

 「人の命」とか、「平和」とか、「自然環境」とか、「教

育」とか、人間が重要としている事がいろいろ有るけれど、

そんなの氷河期の様な、地球規模の環境の激変が起れば消し

飛んでしまう。地球にとったら、人間の思惑など何の意味も

無い。

 人間が、自分達の都合にこだわっている限り、人間は 

“「どうでもいい」存在” のままでしょう。


 だけど、自分の見ているこの世界と、自分自身を、謙虚に

「どうでもいいんだ」と感じられたら、その時には違う意味

が立ち現れて来ると思います。

 自分というものを世界と区別して、自分というものを独立

した存在のように感じていた想いを、「自分はどうでもいい

んだ」と放棄した時、自分が世界と同質のものとなって、

い意味で、世界の中に埋没する。世界とひとつになる。


 世界とひとつになれば、世界の前で “「どうでもいい」存

在” であった自分は、もう無い。

 もうすでに、自分は世界の側に入ってしまっているのだか

ら。


 テレビやラジオ、インターネットなどのメディアは、本当

は「どうでもいいこと」を、大層に、大袈裟に、深刻に、も

っともらしく、もったいぶって流し続けてきたけれど、その

嘘というか「愚行」には、もう付き合わなくてもいい時代が

来ようとしているのかも知れない・・・。



 メディアから流れるのは、人を「考えさせよう」・「動か

そう」とするメッセージばかり。

 それは、一見大切なことのように見えても、「考え・動

く」、そのことこそが問題を大きくしているのだろうと思

う。


 出来事を、「どうでもいいな」と、やわらかく受け止める

ことが、自分にとっても世界にとっても、良いものをもたら


すのだろう。そう思うけどね。



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