2018年3月13日火曜日

「愛」とは何か?


 「ついに来たか」という感じで、「愛とはなにか?」とい

うことです。

 前回の最後に《愛とは、絶対の「許し」。絶対の「肯

定」》としましたが、それを、こう例えてみたいんです。

 “「愛」とは、エゴの世界に空いたブラックホールのよう

なもの” だと。



 もちろんここで言う〈愛〉は、「恋愛」や「母の愛」とい

った〈執着〉のことではありません。《絶対の「許し」。絶

対の「肯定」》なんですが、それがなぜ「ブラックホール」

なのか?


 世の中は、人々の〈エゴ〉が集まって作られていて、その

空間は〈エゴ〉による「否定」と「要求」で満たされていま

す。そこに〈愛〉が在ると、どう作用するか?


 エゴが「否定」し、「要求」する存在であるのに対し、

〈愛〉は「肯定」し、「求めない」存在です。エゴとは完全

に相反するものです。

 「肯定」し、「求めない」存在とは、ある意味 “無反応” 

な存在です。「否定」されても抗わず、「要求」されても抗

わない(暴力に対してだけは抗います。暴力は存在に対する

『絶対否定』だからです)。それは、他者からの反応によっ

自分の存在をたしかめているエゴにとって、恐るべき存在

す。自分からの働きかけが、すべて虚空に消えてしまい。

自身の存在が不確かにされてしまうからです。

 そのように、エゴにとって〈愛〉はブラックホールのよう

に働きます。


 〈愛〉がそばに在り、エゴがそれに関わると、関わった分

だけエゴの一部は失われます。すると、エゴが失われた分だ

け、その陰に隠れていた、その人本来のものである〈愛〉

が、表に現れて来ます。〈愛〉はすべてのものの “本質” と

して、どこにでも在るものだからです。

 目的を持たないが故に自ら働きかけることは無く、目的を

持たないが故にあらゆるものも拒まない。

 それは白紙の存在であり、空間そのものの在り方で

す。だから「どこにでも在る」のです。


 エゴを持つ事を刷り込まれ、エゴに依って生きることに馴

らされ、エゴの世界で否定し合い、要求し合う毎日に苦悩し

つつ、それより他に「やり方」を知らない・・・。

 そんな存在であるわたしたちが、時折〈愛〉に触れる時、

“「やる」こと” の息苦しさから開放され、安らぎを覚えま

す。〈愛〉は無条件で止まっているからです。エゴが無けれ

ば、わたしたちの意識は止まるからです。安らぐことは、意

識の停止ですからね。


 エゴは「やりたがり」です。

 動いていなければ、自分の存在を確かめられません。

 ですが、〈世界〉は実際には完結しています。そこに人が

付け加えるべきものなど、本当はありません。地球上に人間

が現れる遥か前から生物は生き続けていて、人間はつい先日

加わったばかりの新参者ですが、人間が現れる前の地球は不

完全だったのでしょうか? 人間が居ようが居まいが、〈世

界〉は完全です。そこに人が付け加えるべきものも、付け加

えられることも有りません。人はただ、引っ掻き回してるだ

けです。


 「やりたがり」で、「やらずにおれない存在」であるエゴ

には、“やる理由” が必要なので、まず「否定」します。

 「世界は完全じゃない!」と。

 世界が完全なら、“やる理由” が無いからです。エゴが

「否定したがる」のはその為です。そしてやる必要のないこ

とをして、世界を引っ掻き回し、ゴタゴタを創りだし、自分

で疲れます。


 そもそも、エゴには “存在理由” がありません。

 “存在理由” のないものが、なぜ生まれてしまったのか?

知る由もありませんが、それ故、エゴは “存在理由” を求め

ます。エゴの衝動、エゴの動機は、“存在理由” を明らかに

することです。

 が、それは永久に叶いません。「無い」ものはどうしよう

もありません。「無い」ものは「無い」のです。


 わたしたちには “存在理由” がありません。

 だから「理由も無くしあわせ」でいる必要があるのです。

 そして《しあわせになるのに理由はいらない 》ことに気

付くことが必要なのです。


 「理由も無くしあわせ」な存在は、〈愛〉そのものです。


 それはエゴに害されることが無く、却ってそれに触れるエ

ゴを消してしまうものです。


 〈愛〉とは、エゴ以外の “世界そのもの” です。



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