2018年3月2日金曜日

「何の為?」?


 「何の為?」って、いきなり何でしょう?

 「何についての、『何の為?』」という疑問を持たれるか

も知れませんが、“何か” についてではなくて、「何の

為?」そのものの話を・・・。



 わたしたちは何かにつけて、「何の為?」という疑問を持

ちます。

 政治家が新しい法案を出せば、「何の為?」。

 経営者が新しい決まりを作ったら、「何の為?」。

 旦那が、変な物を買って来たら、「何の為?」。

 仕事にやりがいを感じられなくなって来たら、「何の

為?」。

 生きてる意味が分からなくなって来たら、「何の為?」。



 有りがちですね。それぞれの深刻さこそ違え、わたしたち

は、しばしば「何の為?」と口にします。

 「何の為?」と言うからには、あることについての理由が

分からないとか、正当性が認められない、納得がいかないと

感じているわけですが、そういう感慨は物事がスムーズに流

れている時は持ちませんね。流れを変えさせられる時に感じ

ます。

 一方で、物事がスムーズに運んでいても、している事・す

べき事が無意味に思える時は、「何の為?」と思いますね。

それまであったはずの理由や、必然性が無くなったり、分か

らなくなった時・・・。



 先に挙げた方は、自分のエゴを満足させることに邪魔が入

った時の反応ですね。

 後に挙げた方は、エゴの見せるストーリーに疑問を感じた

時に起きる反応です。



 先に挙げた方は、エゴの標準的な活動なので、わざわざ取

り上げるほどの事ではありませんが、後の方は人の心理状態

としては結構重要な局面です。

 人は普段、なかなかエゴを疑ったりしないものです。いつ

もはエゴが意識の主導権を握っているので、自分のしている

ことそのものには、疑問を持たない様に仕組まれています。

 ところが、心や身体があまりにも疲れてきたりすると(心

の疲れを自覚していない場合でも)、その声が自分に聞こえ

る程大きくなって来ます。

 「こんなこと、必要か?」と・・・。



 そこで、心と身体の声に耳を傾ければ良いのですが、すぐ

にエゴの監視に引っかかり、引き戻されます。その時にエゴ

がよく使うのは、“今までの行きがかり” です。

 「今までよかったじゃないか!楽しかったじゃないか!」

 「ここで辞めてしまったら、これまでの事が無駄になるじ

ゃないか!」とか言うのです。

 それから、こんな風にも言います。

 「そうか。じゃぁ、少し休もうか? これまで頑張って来

たものね。少し休むのも良い事だ。」

 エゴは、自分を励ましてくれるのです。

 そして、見事に逆境を乗り越えると人は満足します。

 メデタシ、メデタシ・・・。で、済ませるような私ではあ

りませんね。



 人は、本質的な逆境  今まさに生命の危機が迫ってると

いうような  のさなかでは、「疲れた」とか「こんなこと

必要か?」とか思ったりしないものです。必死ですから、そ

んな悠長なこと頭に浮かぶ余裕はありません。エゴより先

に、心と身体が何も言わずに行動を起こします。

 仕事中に大きな地震が起きれば、仕事なんかそっちのけ

で、身を守ろうとします。

 エゴが暴走し過ぎれば、鬱病になったり、胃潰瘍になった

りします。心と身体が無言のブレーキを掛けるのです。(そ

の時は「後手に回ってしまった」ということですが・・・)
 

 「こんなこと、必要か?」という声が、自分の中に湧きあ

がる時は、“自分の中にウソがある” と見るべきです。そし

て、〈本来の自分〉の中で “黄色信号” が灯ってると考える

べきです。いや、警告でしょうか、「幅員減少」とか・・。

 「そのまま突っ込むと事故るよ!」と言ってるんです。

 警告にしたがって止まってしまわれることを、エゴは一番

恐れます。なぜなら、エゴは「活動」なくしては、存在でき

ないからです。



 エゴはとにかく活動しようとします。理由は無いのです。

 脳は停止することが出来ません。意味も無く動き続けます

が、その時にどうしても “言葉による活動”   〈思考〉が

生まれてしまいます。そして、脳は無秩序に思考することが

できないので、「思考する為の “意味”」を作りだします。

「活動理由」ですね。そうして生まれた「活動理由」が、実

際の人の活動として、アウトプットされてしまうのです。



 わたしたちがやっている事のほとんどは、その様に、脳の

無意味な活動に “後付け” されたものであって、「何かの

為」ではないのです。その事は、自分がしている事の “本当

の理由” を、しつこく掘り下げて行けば分かります。どんな

事にも、決定的な理由など有りません。 

 せいぜい、命に直接関わる事に「生への衝動がある」と感

じるぐらいで、言葉に出来るようなものは無いと分かるはず

です。

 だから、ひどく疲れた時など、〈思考〉が弱まった、ふと

した瞬間に〈本来の自分〉に返り、「何の為?」という疑問

が湧いてしまうのです。


 世界中で、日々、ありとあらゆる無数の出来事が起る。

 ほんの小さな日常の予定から、何百万人の賞賛を受けるよ

うな仕事や、何千万人を戦慄させる事件までもが、「◯◯の

為」という理由付けがされて、行われる。

 それが、ただ単なる「脳のオーバーワーク」だなどとは、

誰も思いもしていない。

 そこに注がれる膨大なエネルギーが、その分の環境破壊を

生んでいる事や、そこに使われる巨額の資金が、弱い立場の

人々を支える事にも使えた可能性などが、その脳裡をよぎる

ことは無い・・・。
 

 あまりに身も蓋も無い話だけれど、言わせてもらう。


 《 人のすることのほとんどは

            貧乏ゆすりのようなものだ 》


 それは〈思考の貧乏ゆすり〉とでも言うべきものですが、

タチの悪い事に、この「貧乏ゆすり」は伝染します。

 そして、精神的にも物理的にも大きな影響力を持つ。


 人にとって、世界にとって、本当に「為になる」事とは

「何か」?

 虚心坦懐に想いを巡らせば、誰もが口をつぐむしかないで

しょう。

 その問いに対して、いち早く口を開いたり、断言したりす

る者は、「正義のヒューマニスト」や「心優しいエコロジス

ト」だったり、単なるエゴの奴隷に過ぎないでしょう。


 「何の為?」と真剣に自分に問う時。人は、深い虚しさと

悲しみを感じることを覚悟しなければならないけれど、それ

は “問わなければならない「問い」” です。

 自分を見つける為に



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