2019年9月21日土曜日

許さない人たち



 京アニの放火事件が起きた時、「許せない!」と発言する

人たちが秘めている “怖さ” について書いたんだけど

(『「許せない!」か・・・』2019/7)、この世の中で

は多くの人が、自分の周りや社会で起こる気に入らない出来

事や、それに関わる人々を、「許さない」という態度をとる

(韓国では、国のトップがそうたきつけてたりする)。しか

し、何のためか? 許さなければ、何かいいことがあるのだ

ろうか?

 いいことなんかありはしない。一時、アドレナリンが出て

気分がいいだけのことだろう。その後には更なる面倒なゴタ

ゴタが待っているのが普通なのだが、人は「許さない」のが

好きだ。


 何か “良くない事” をした個人や組織に「責任を取らせ

る」ことと、「許さないこと」は、別のことだと私は考え

る。

 「責任を取らせる」ことは、社会的・実務的な事であるの

に対して、「許さないこと」はあくまでも心情的な事だ。

「許さない」ことにこだわり過ぎると、現実を見失ってどん

どん問題が増悪して行き、自分をドロ沼に沈めて行くことに

なる。


 なんだってこういう話を書いているかと言えば、このとこ

ろの韓国の反日と、「福島第一原発の汚染水は海洋投棄する

しかない」という前環境相の発言に刺激されてのことのよう

だ。


 韓国が「日本を許さない!」と言い続け、現実無視を貫い

て自らの首を絞めているのはもはやマンガのようだが、汚染

水の海洋投棄を心情的に「許さない!」のも現実無視だろ

う。

 たまり続ける汚染水をため続けることは出来ないし、害の

大きい放射性物質が取り除いてあるのなら、自然界に放出

しても科学的には問題が無い。風評被害を問題視する人たち

や、ゼロリスクを求める “安心安全原理主義者” は「許さな

い!」と言うだろうが、じゃぁどうするんだ? タイムマシ

ンを作って、過去に戻って原発事故が起こらないようにリセ

トするのか?


 起こってしまったことはしょうがないのだ。それが現実な

ら、その現実には現実的に対処するのが筋だろう。私は、大

阪の松井市長と吉村知事の「汚染水を大阪湾に流してもい

い。協力する」「科学が風評に負けてはいけない」という発

言を支持する。

 そもそも、チェルノブイリ原発事故が起きても、日本人の

総意は「原発反対」にならなかったのだから、この度の事故

の処理に対しては、日本全体でその責任を引き受けるべき

だ。東電と政府にだけ責任を押し付けるのは卑怯だと思うね

(今回、当時の東電の経営陣が刑事裁判で無罪になったこと

には「それはないだろ」と思っている。だって敷地内の高台

に非常用電源設備を設けておけば済んだ話なんだから。そん

なの経営陣のポケットマネーでも出来た程度のことだろうし

ね)。


 私はなにも「科学が絶対」と思っているわけではない(そ

の「科学の粋」のはずだった原発が事故を起こしたのだから

ね)。

 自分に都合の良い時は、わずかばかりのデータでも科学を

根拠にするくせに、自分に都合の悪い時は、「そのデータの

科学的根拠は疑わしい」「科学は絶対ではない」などと平気

で言う輩が大勢いるのが不愉快でならないだけだ。

 “許さない人” たちというのは、自分の気が済むためには

平気で現実を無視する。そして、“気に入らない人・事” を

断罪する。それが妥当かどうかは気にしない。いや、「それ

が妥当である」と思わせてくれることだけを根拠として採用

する。


 《 「正しい」とは、そういうことにしておけば気が済む

ということ 》と今まで何度も書いてきた。

 “許さない人” は、常に「正義」とセットになっている。

 意識しているかどうかに関わらず、「自分は “正義” の側

だから、それを損なうものは断罪していいのだ」と考えてい

る。なぜなら「正義」とは「正しい根拠」という意味と捉え

ることができるから・・・。つまり、「 “正義” の側が根拠

にすることは、常に正しいのである」と思っている。・・・

困ったもんだ。


 かくて、社会には現実無視の「正義」がまかり通り、問題

は適切に解消されることなく、世界はさらなる混迷を深めて

行く・・・。


 韓国の反日は放っておくしかないだろうし、汚染水の処分

が風評被害をもたらさないようには、日本人全員でその科学

的正当性を支えるべきだと思うよ。汚染水はいずれは自然界

に放つしかないのだから、感情的になって先延ばしにしてい

てもどうにもならないでしょうよ。


 そもそも、「理性的」であることが人としての “徳の高

さ” や “格” を表すのではないの?世界的にも?

 日本人に「自分達の民度は高い」という意識があるのな

ら、感情的に物事を判断するのはいかがなものか。お隣の国

の、感情的な “許さない人” たちを見て、〈他山の石〉とす

べきでしょう。感情的になった時点で、自身の程度の低さを

露呈してしまっているんですよ。


 やっぱり、「許さない」というのは、地獄を作る行為でし

ょう・・・。


 こんな言葉があたまに浮かんだ。

 《 地獄は「正義」を土台にして作られる 》

 ありがちだけど。




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