2019年9月8日日曜日

S・YAIRI YD-304



 私は四台のギターを持っている。その中で一番古いのが、

四十年以上前の  “S・YAIRI” という日本のメーカーのギタ

ーです。型番はYD-304というもので、当時の定価が

80000円のものですね。塗装が一部傷んでいますが、今で

もいい音で鳴ってくれます(「ベルサウンド」と呼ばれる独

特の “鳴り” です)。

 そのギターの弦を久し振りに張り替えたのですが、ふと思

ったのは、その四十年ほど前の頃のこと。


 その頃、三ノ宮に「三木楽器」というビンテージギターだ

けを扱う店があって、そのショウウインドーには “マーチ

ン” の四百万円もするギターが飾ってあった。そのギターは

製造から四十年程たったもので、当時の私には大昔の物だと

思えて、その値段も「当然かな」と思えたものでした。


 ところが、今、自分の手の中に製造後四十年経ったギター

がある。

 ハイクラスの品物ではないけれど、日本では高い評価を受

けていたメーカーのミドルクラスの物だ。四百万円なんてす

る道理も無いが、あの時「三木楽器」のウインドーに飾られ

ていた物より、いい音がするかもしれない(とうぜんなが

ら、あのギターがどんな音がしたかは知らない)。見た目も

いい具合のビンテージ感が出ている。


 ・・・と、ここまで書いたところで弾きたくなったので、

今『別れの朝』などを弾いて歌っていた。


 で、こんな話を始めて、何を言おうとしているのか自分で

もよく分からないのだけど、どうも “時代” ということを書

きたいのではないだろうかと思う。自分の持ち物が “ビンテ

ージ” になるなんて、なにやらため息が出るような、呆れる

ような・・・。


 わたしたちは「未来」を知らない。当然ながら、「未来」

には何の厚みも無い。

(「現在」はというと、それは「未来」への取っ掛かりでは

なくて、「過去」のなれの果てのようなものだろう)

 一方で、「過去」にはその時間の経過の分だけ厚みのよう

なものがあるように感じる(その厚みは、時には汚れだった

りもするが・・・)。その厚みに、人はビンテージギターに

対するような価値を感じたりするのだが、それ以上に、重荷

を覚えることの方が多いだろうと思う。


 わたしたちは「過去」に繋がれている。

 わたしたちには「未来」というものは無い。わたしたちに

とって「未来」というものは “取りこぼした「過去」”  か、

“挫折の代償” のようなものだろう。“本当の「未来」” はわ

たしたちのイメージの外にある。


 想定し、夢を見て、設計し、作り出すことによって、わた

したちは “本当の「未来」” を消していってしまってるのか

もしれない。来るべきだった「未来」というか、“「未来」

の本質” というものを知りえないまま生きているのかもしれ

ない。


 高級品ではない私のギターが、ビンテージの味わいを帯び

てきたように、「未来」というものは、「気付いたらそうな

っていた」というものだろうし、「思いがけない」からこ

そ、「未来」としての価値があるのだろう。「良い」「悪

い」「望む」「望まない」に関わらず、「思いがけない」こ

とこそが「未来」の「未来」たる値打ちだろう。(などと思

う) 






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