2019年9月22日日曜日

地獄は嫌だ



 昨日《 地獄は「正義」を土台にして作られる 》と書いた

後、 “地獄への道は「善意」で敷き詰められている” と誰か

が言っていたのを思い出した(私の言うことにオリジナリテ

ィなどありません)。地獄から逃れようという「正しい」

「善い」思いが却って地獄を生む。


 私も地獄は嫌だ。

 私は、生きているあいだにエゴという地獄から抜け出した

いと思っている。

 これほど強欲なこともないだろうが、その強欲は私のエゴ

なので、「地獄から抜け出したい」という思いが強いほどエ

ゴも強い。より地獄の “地獄性” が強くなってしまう。バカ

な話だな。



 何ごとも「あっさり」いかなきゃいけない。

 気楽にいかなきゃいけない。

 自分で深刻ぶったり、こだわったりするのもいけないが、

他人に対して、深刻に、執拗に、「正しさ」なんかを求めた

るのは最悪だ。

 「正義の人」「善意の人」「真面目な人」

 そういう人ははた迷惑極まりない。そういう人間こそが地

獄を作る。

 (「悪い人」「悪意の人」「不真面目な人」が地獄を作る

のも、間違いないけどね)


 「深刻さ」も「こだわり」も「正しさ」も、人が “そう思

う” だけでしかないんだ。

 それによって、却って「あるがまま」の世界を見損ねるん

だ。

 錯誤の上に錯誤を重ねてゆくんだ。

 地獄を生んでゆくんだ。



 お釈迦様は悟りをひらき《 我、大地と有情と同時に成道

す 》と言った。

 私流に解釈すると、“世界は完璧だ” ということになる。

 だって、今ここに世界はあるがままにあって、それがこの

世界であるのは間違いないのだから、人間がそれに不服を言

ったってしょうがない。世界はこの瞬間に完成し、瞬間ごと

に完成し続けているんだ。それが人から見てどれほど過酷で

醜悪に思えようとも。


 大智禅師は書き残している《 晴天白日、人誤る事多し 

 なんでもないのに、人がエゴの目から世界を見るので間違

いを犯す。


 達磨さんも言っている。《 廊然無聖 》。

 「なんにもないよ」と。


 老子も言っている。《 無為自然 》。

 「“そのまま” をそのままに」・・・。



 仏教だろうと、キリスト教だろうと、イスラム教だろう

と、ヒンズー教だろうと、老荘だろうと、近年のスピリチュ

アルマスターだろうと、伝えようとしていることは同じ(ま

ちがいを伝えようとしている者が大勢いるのはともか

く・・)。


 「世界はそのままで完璧だ。それをそのままにしておくの

が良い」


 わたしたちは、それを「そのまま」に受け取ればいいのだ

が・・・。


 エゴの目で見れば、“世界は不完全” 。“世界は地獄” 。

 「そのまま」見れば、“世界は完璧” 。“世界は浄土” 。


 世界には「正しい」も「間違い」も無いし、「善悪」も無

い。

 人が「正しさ」を見れば、そのことが「間違い」を生む。

 人が「善」を見れば、そのことが「悪」を生む。


 人の思考・活動はマッチポンプ。

 人はずっとずっと一人相撲を続けてきた。きっと何万年も

ね・・・。


 そろそろ飽きてもいい頃だろうと思うが・・・。





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