2018年1月10日水曜日

老子~タオ:ヒア・ナウ~


 『タオーヒア・ナウー』PARCO出版)という本があ

る。1992年に英文学者の加島祥造さんが、原文に囚われず

に、『老子』からそのエッセンスというべきものを取り出し

て、自身の表現に置き換えたものです。

 私が手にしたのは、1994年。私が最も大きな影響を受け

た本の一つです。



 内容は要するに『老子』ですが、平易な、今の言葉で紡い

だ〈詩〉となっている。

 この本の〈あとがき〉で、加島さんが〈老子〉をこう評し

ています。


 《孔子が「衣食足りて礼節を知れ」と言ったのに対して、

  老子は「衣と食が足りたら、内側の自由を知れ」と指

  し示す人だった。彼の説く「自足」とは、いま在るこ

  とへの祝福のことだ。それが「衣と食の足りた時」人

  間に与えられる最大の課題だ。人類が21世紀になって

  最も大切に考えるべき思想なのだ》



 ところが現実の21世紀といえば、衣と食が足り、足り過

ぎ、「課題」は何処かに消し飛んでしまった。その一方で、

衣と食がまったく足りず、「課題」など意識する余裕も無い

人々が人口の三分の一ほど居るのだろう。

 残念な状況だと私は思うが、私の地球ではない。どうこう

すればいいなどと考えても無意味だし、おこがましい話。個

人レベルで〈老子〉の課題を受けるだけ。
 

 孔子が「衣食足りて礼節を知れ」という〈礼節〉とは、社

会のルールのことですね。「社会のルールを守って、社会に

貢献しなさい」と言ってるわけですが、加島さんは「老子

は、『衣食が足りたら、個人の内面のこだわりを無くすよう

にすべきだ』と言っている」と受け止めている。

 “こだわり” とは、〈欲〉のことですね。

 個人が「衣食足りている」のであれば、その社会は機能し

ているはずです。その上で「衣食足りている」のに、まだ社

会に目を向け、社会のルール(やり方)に注力するというの

は、人に何をもたらすのでしょう?

 賢くなるのでしょうか?

 社会がより良くなるのでしょうか?

 人類が進歩するのでしょうか?

 人類が幸福になるのでしょうか?


 「余計な事にエネルギーを使ってるだけだよ」というの

が、老子の考えなんでしょう。

 余計なだけでなく、「愚かな事だよ」とも言うでしょう。

 「人間の幸福は、社会にあるのではない」

 「人間の幸福は、個人の中にある」

 「個人が、社会に幸福を探すことが、社会を乱れさせる」

 その様な事を、老子は伝えているようです。


 社会をより良くしょうとしなくても、「衣食足りている」

のであれば、その社会は “良い社会” でしょう。“より” とい

う考えが、却って社会を乱してしまう。

 〈礼節〉を身に付けて、社会で賢くなってどうするんでし

ょう? 誰かと較べて、自尊心や虚栄心を満足させるだけで

はないのか?


 「衣食足りている」社会なら、そこには目に余る搾取や闘

争は無く、相互扶助が実現しているはずです。つまり、すで

に〈礼節〉があるはずです。その上にさらに求める〈礼節〉

とは何か? それは、虚栄心やその為の保身に繋がるもので

しかないでしょう。そのようなものの先に、「人類の進歩や

幸福」あるでしょうか? 

 「人類の進歩」なんて、道具立てが複雑になって、約束事

が込み入って行くだけで、やってる中身は昔と変わらない。

 「人類の幸福」なんて、存在しない。

 幸福は、個人の中に生まれるものです。


 とは言うものの、「衣食足りた」人間はどうしても外へ向

かってしまう。それが人間の業というものでしょう。

 「衣食足りる」ようにする為には、アタマで考えるしかあ

りません。そうして、「衣食足りる」状況を作りだしたので

すから、幸福を求める時にアタマで考えてしまうのは、無理

のない話です。余計に〈礼節〉を知ろうとしたりして、却っ

て迷ってしまう・・・。そうして迷ってしまう人間の為に、

老子は『道徳経』を遺した。「戻った方がいいよ」と。


 〈礼節〉を知るべく、わたしたちは社会にさまよい出る。

 その社会の中に、時折、老子や釈迦やソクラテスやスピノ

ザのような人間が現れて、わたしたちを諭してくれる。

 「こっちに来るのは間違いだったよ。戻った方がいいよ」

と。

 さらに、加島さんのように、先賢の言葉を伝えてくれる人

たちがいる。でも、その言葉が伝わる範囲は狭い・・・。

 自分の隣に居る人にさえ、まず伝わらない・・。


 自分で書いてしまった・・。

 「人類の幸福なんて存在しない。幸福は個人の中に生まれ

るものだ」と。

 世の中を嘆いても、虚しいだけのことだ・・・。

 個人の課題なのだ・・・。

 独りの道なのだ。

 だから老子は、自分からは《道》を説こうとはしなかった

とも言われる。

 釈迦も悟ってから、それを伝えるかどうか何日も迷ったと

いう。

 だけどそれは、悲しい。虚しい。寂しい・・・。迷って、

嘆いている人々が愛しい・・・。

 意を決して語った。その世界の扉の前で足を止め、こちら

を振り向いて・・・。そうして、老子や釈迦の言葉は伝えら

れて来た。


 そうした言葉が二千年以上も伝えられてきた事が、その言

葉の正当性を証明するわけではない。人間の愚かさも、ずっ

と伝えられてきたのだから。

 ただ、老子のような人が語る言葉に従う事が、安らぎや楽

しさに運んでくれる事は、多くの人々が実感して来た事で

す。

 「それは、マインドコントロールだよ」と、言う人もいる

でしょう。でも、闘争・戦争・搾取・策略が渦巻く世の中が

収まったことが無いのは、事実です。世の中の方の「マイン

ド」を疑ってみることは、やってみる価値があることだと思

いますね。


 (加島祥造さんには、『求めない』(小学館)という本も

  有ります。数十万部を超えるロングセラーになってま

  が、私はこの本が「世界中、一家に一冊あるべきだ」ぐ

  らいに思っています。ある意味、キリスト教徒にとって

  の聖書のように。それぐらい、“読むべき本” です)







 

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