2018年1月7日日曜日

夢を叶えたようです


 以前にもちょっと触れた話ですが、もう二十年近く前、友

達の N に「お前の夢はなんや?」と訊かれ、「夢なんか持

たなくなること」と答えた事があります。

 それから年月が流れ、今の私には「こうしたい」という様

な目的がほとんどありません。

 もちろん、生活上の小さな目的はありますが、それは「気

分よく暮らす」為の、最低限のゆとりの様なものです。ちょ

っとお酒を飲んだり、近くの気分の良い場所へ出かけたりと

いう程度の、普通は “日常” に分類されるようなことに過ぎ

ません。

 他人が感心してくれる様な、特別な望みはありません。

(このブログを観て、「『面白い!』と言ってくれる人がい

れば嬉しいな」とは思いますが、それは〈夢〉というほどの

ことでもないでしょう)


 私の夢は「夢なんか持たなくなること」でしたから、夢

は、ほぼ実現したのでしょう。

 「こうなりたい」とか、「こうしたい」とかいう欲求から

かなり解放されて、肩が軽くなったように感じます。

 欲求が少ないと、日々の普通で当たり前の事に対しての、

落ち着いた眼差しが生まれます。そして、そういった事に、

しみじみとした愛おしさが感じられる様になってきます。

 なにより、この夢はもう無くすことがありません。



 「何か」を手に入れたら、いつかそれは失われます。

 「(社会的な)何か」になっても、いつかそれは失われま

す。それらを失いたくなければ、維持し続ける努力が必要で

す。

 こういう言い方をすると不愉快に感じる人は多いでしょう

けど、「何かになる」「何かをする」という夢を持つ人の多

くは、〈夢〉の奴隷になっている。


 「楽しいからやってるけど、出来なければそれでもいいん

だよ!」というふうに、それを失っても “挫折” とは感じな

い人もいる。そのような人は、それをはなから〈夢〉だと思

っていない。そうすることが自然だから、そうしているだ

け・・。

 一方で、ことさらに自分の夢にこだわる人は、〈夢〉の奴

隷でしょう。

 自分が〈夢〉を持っているのではなくて、〈夢〉に自分が

持たれてしまっている。ミイラ盗りがミイラになった。


 人から感心される様な事を、何も成し遂げていない私は、

ただの「出来ない人」かも知れない。

 私の言ってる事は、ただの強がりや、負け惜しみかも知れ

ない。けれど、そんなことはもうどうでもいい。それならそ

れでも構わない。もう、こうして五十数年生きて来られた。

 私の様な人間が、この世の大多数なのだから、この「出来

ない人」「何でもない人」を肯定したい。

 そうした大多数の人間が、ずっと生きて来て、今も生きて

いる。それは「肯定されている」ということに他ならない。


 肯定していいのです。

 だれも肯定しなくとも、誰かが嘲笑おうとも、“生きて来

た”・ “生きている” という事が、「肯定されている」とい

うことです。


 誰に?

 〈命〉にです。

 〈存在〉にです。

 〈宇宙〉にです。

 誤解を恐れずに言えば〈神〉にです。

 そして、〈自分〉にです。


 何も出来なくったっていいし、何もしなくったっていい

し、むしろ何もしないで居られるのなら、それが一番いい。


 「生きている」。それで何も不満は無い。

 「生きている」。そこに何も不安は無い。

 それ以上のことは無いはずです。

 そして、誰でも「生きている」。


 《 夢を捨てる時、最高の夢が叶うのです 》


 (自画自賛ではありませんよ。自分自身への戒めです。

  結構いいところまで来たので、ぶち壊しにならない

  様にね・・・) 







 

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