2018年1月5日金曜日

千手観音に抱かれると 「抱き込み往生」


 前に唐招提寺の千手観音を観た時の事を書きました。

   『手を合わせる意味』(2017/4)という回で   

 あの千本の手は、「あらゆる方法で衆生を救う為に有る」

ということですが、私は「すべてを与えてあるということ」

だと感じたと。でも、昨日ふと思ったんです。

 「『すべて与えてある』って、誰に?」

 「『あらゆる方法で救う』って、誰を?」



 すべてを与えられているのは、誰? 救われるのは、誰? 

 千手観音に手を合わせ、「救われる」とか、「すべて与え

てもらってる」とか思うのは、私の〈意識〉だけれど、それ

はまたしても〈エゴ〉じゃないか?「救われる “私”」が居

るうちは、ほんとに救われたことには、ならないんじゃない

かと。

 「私にすべてが与えられている」と感じても、そもそも、

その “私” 自体が、“この世界” に生み出されたものだから、

それは “この世界” の一部です。〈意識〉が勝手に “私” と 

“世界” を区別しているだけで、〈意識〉以外に “私” は無

い。

 だから、「“私” が救われる」と思う時、そこにはやはり

〈エゴ〉がある。

 救われてしまえば、もう仏と一体化してしまう。

 すべて与えられて、すべてに包み込まれてしまえば、すべ

てと一体化してしまう。そこにはもう〈エゴ〉は残っていな

い。

 「私は救われている」とか、「私にはすべてが与えられて

いる」とか思う時は、実はまだ救われてはいない。

 何でもなくなった時が、本当の『救い』となるのでしょ

う。


 「何でもない」から、何でもなく生きて行く。

 「何でもない」から、何も求めず生きて行く。

 「何でもない」から、何も厭わず生きて行く。

 「何でもない」から、何も恐れず生きて行く。

 「何でもない」から、「何でもいい」と生きて行く・・。


 そうなるはずです。

 すでに、“世界” と一体なんだから。

 何もかもが自分の一部なんだから。


 救われるべき “自分” は、もういない。

 仏が救うべき者は、もういない。


 今まで、自分が救われているのを知らず、救われたがって

る〈意識(エゴ)〉があっただけで、本当はすべてのものが

始めっから救われている・・・。


 何かの経典の言葉だったか、昔の僧の言葉だったか忘れた


んですが、《衆生を救わんと欲するに 衆生無し》というの

があります。(《衆生を度せんと・・・》だったかな)

「悟りを啓いて一人の仏が誕生した。

 仏になったら、多くの衆生を救おうと考えていたが、

 仏になってみると救うべき衆生は何処にも居なかった」

 と言うんですね。


 千手観音は、いわゆる『菩薩』です。まだ仏(如来)には

なっていない。だから、衆生が迷っている様に見える。だか

ら救おうとする。

 一方で、衆生の方は迷って救いを求めている。

 実は、菩薩も衆生も両方とも迷っている。

 衆生と一緒に迷ってやるのが菩薩であって、迷いを無くす

のではない。

 「一緒に迷ってやるから、迷ったままで良い」

 それが菩薩の想いなのでしょう。

 それを受け入れた時、菩薩と共に衆生も救われる。迷わな

くなるのではなく、迷う事を受け入れられる。(『抱き込み

心中』という言葉がありますが、これは『抱き込み往生』で

すね)


 その菩薩と衆生の姿を、仏は観ている。

 「迷おうが、迷わなかろうが、皆それぞれ、それぞれを生

  きている」
 

 仏になると分かるのでしょう。

 苦しみはすべて、気の迷いだと。

 いや、そう分かる事を「仏になる」と言うのでしょう。


 《救わんとする衆生》は、何処にもいない。

 一人残らず救われている。

 だったら、ここにいるのは、“救われてるわたし” 。

 “救われたいわたし” は、何処にいるのでしょう?


 低周波とか、電磁波なんかが、気付かぬ内にわたしたちに

影響を与えていることがありますね。

 それと似たかたちで、何千年も昔に生まれた、人間の〈怖

れ〉と〈欲望〉と、そこから立ち現われた〈妄想〉が、時を

越えて拡がり続け、“何でもない” わたしたちの〈意識〉を

揺さぶり、迷わせ、怖れさせているのでしょう。そして、そ

の〈迷い〉と〈怖れ〉から、さらなる〈迷い〉と〈怖れ〉を

作りだし、いっそう迷い、苦しむ・・・。


 わたしたちは、受け継ぐべきではない “悪しき想念” とで

もいうものを、連綿と伝えて来たのでしょう。実態を持たな

い、単なる “気の迷い” に過ぎないものを・・・。その “想

念” を肉体に取り込み、エネルギーを与え、“気の迷い” で

しかなかったものを、実体化させてしまいさえするので、そ

れを事実だと思ってしまうけれど・・。そして、それを自分

だと思い込んでしまうけれど・・・。

 本当は、何でもないのでしょう。


 わたしたちが、“自分” だと思っているもの。

 お互いが、“その人” だと思っているもの。

 “救われたいわたし” 。

 それは、いわば、大昔から人間に憑依し続けてきた “亡

霊” のようなものでしょう。

 その「迷える “亡霊” 」を、自分の中で供養し、“亡霊” と

もども、千手観音の千の手に抱かれて、『抱き込み往生』し

てもらう。

 《迷ったままでいらっしゃい》

 千手観音は、そう語りかけているのでしょう。

 「“救われたいわたし” も、一緒でいいよ」、とね。





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