2020年7月4日土曜日

誰にでも「事情」があるけれど。



 昨日、以前勤めていた職場で仲の良かった人と、久しぶり

に会い、食事をした。

 三時間ほど昔話をしたりしながら楽しく過ごしたのだが、

家に帰ると、どうも気分が良くない。

 前にこのブログの中でも書いたことがあるのだけれど、以

前の職場はブラック企業化してしまい、そのせいで退職した

ので、昔話の内容自体はあまり愉快なものではない。それゆ

えに、当時の不快な気分がかなり蘇ってしまったのだろう。

気持ちがざわついてしまった。

 そしてこう思った。

 「ああ、自分は本当に “人間関係” というものを持てなく

なったのだなぁ」と。


 私も人間である。この、人の溢れる社会で生きている。だ

から、人と関わりを持ちたい。良いつながりを持ちたいと思

う。こんなブログを書いているような人間だし、“友達” と

呼べるような人間も最早いないが、決して「人間嫌い」とい

うわけではない。けれど、人と「関係」を持ちたいのではな

い。私が人と関わりたいのは、「共感」とか「感応」とかい

った形でのことだ。

 「共感」といっても、世の中の “お話し” の中での、「そ

うだよね~」といった仲間意識というものではなくて、人と

しての本質的で深いレベルでの、「そうだよね・・・。」と

いう、心の深い所に滲みるような確信を共にしたいというこ

とです。だから、「感応」という言葉も添えたくなった。


 “人間関係” というものは、私の感覚では、“社会のお話し

の中でのつながり” なんです。

 私はもういい年だし、もうそんなもの要らない。私が望む

のは、“社会のお話しの中でのつながり” ではなくて、“人と

人としての心のつながり” だね。

 極端に表現すれば、


 「生きてるね」

 「うん」


 「死んでゆくね」

 「うん」


 「不思議だね!」

 「うん!」


 「面白いね !!」

 「うん !!」


 というようなやりとりが成立するような人とのつながりが

持てれば、この世の中で生きている価値があると思う。

(「究極に強欲だ」という気がする・・・)



 社会の中で生きている者として、社会をたしなみ、社会が

より良いものであるための “関係” を持つことは当然のこと

だけれども、それは最低限でいい(どういうのが「最低限」

なのかは考えてみてもらいたい)。その最低限をクリアした

ら、“関係” はもうそれでいい。なぜなら、“関係” というも

のは、「違うもの」の間で生まれるものだから。

 いつまでも「違う」ことを意識し続けていては、どんな生

き物であれ、不安と緊張を持ち続けなければならないだろ

う。私はそれがしあわせなことだとは思えない。

 「違い」を “関係” によって結び付けることができたな

ら、そのあとは、“同じ” であることに意識を向けること

が、人として、生き物として、喜びであるだろうから。


 そもそも、わたしたち人間だけでなく、この世界のすべて

の存在は、「自然」というひとつなのだから  まさか反論

はないでしょう   “同じ” に決まっている。その “同じ” 

の中で「違い」を見てしまって苦しんでいるのが、わたした

ち人間というものです(他の生き物も、もしかしたらそうか

もしれないけど)。


 アダムとイブが智慧の実を食べて知ったのは「違い」でし

た。

 そして、人は楽園から苦渋の世界へと堕ちたのですが、こ

うも考えることができます。

 「違い」を見てしまうようになったおかげで、“同じ” と

いうことを「喜び」として捉え直す可能性を持ったのです。

そのことは、たぶん他の生き物には持ち得なかったことでし

ょう。


 わたしたちのアタマは悪い。ロクなことはしない。

 けれど、その果ての果てに、そのごくごく小さなあるとこ

ろに、すべての苦しみ・愚かさをひっくり返してしまう能力

が与えられている。「違う」がゆえに、 “同じ” であること

に気付いて、「しあわせである」と感じられる能力が。


 実は、「人間関係」なんて無い。

 さっき書いたことをひっくり返すようですが、実は、「人

間関係」というのは、本来ひとつのものの中に「違い」を見

て「距離」を置こうとした結果の事なんだろう。

「人間関係」というものは、その言葉とは裏腹に、人と人と

の間に「事情」という壁を作るものなのです。
 

 《 誰にでも事情がある 》という言葉を書いたことがある

けれど、ホントのホントは、わたしたちに「事情」なんて無

い。

 存在するものすべてに、それぞれの立場に立てば「事情」

はある。けれど、すべての存在は他の存在なしには存在し得

ないので、それぞれの「事情」などというものは、本当は無

い。

 自分の「事情」を忘れれば、この世界はすべて “同じ” 。

 「共感」や「感応」という言葉さえ超えて・・・。






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