2020年7月24日金曜日

自然にさからって



 人は、ほぼ全員がわけも分からず生きている(と、思うけ

ど)。けれど、普段はそのことを意識しないようにしてい

る。

 考えないようにしているか、自分なりになんらかの “わ

け” を想定して自分を納得させている。けれど、もともとわ

けも分からず生きているので、しばしばそのわけの分からな

さが意識上に浮き上がってきて、非常に不安になってしま

う。そして、人を最もわけが分からなくさせ、不安にさせる

ものは「死」だろう。


 コロナの問題、先日の三浦春馬くんの自殺、そして昨日は

「 ALS の患者から頼まれて、薬物を投与して死なせた(安

楽死を手伝った)」ということで、二人の医師が「嘱託殺

人」の疑いで逮捕されたというニュースがあった。共に、わ

たしたちの「死生観」に強く訴えかける出来事だと思う。


 コロナの問題は、“自然にさからってでも、徹底的に現実

から「死」を排除したい” という望みにもとずく。

 自殺は、“自然にさからってでも、「死」によって現実を

排除したい” という望みがそうさせる。

 安楽死は、“自然にさからって「死」を排除している、と

いう現実から解放されたい” という望みによる。


 思い付きで書いたが、これらの苦しみの違いは、「死」と

「排除」という思考の組み合わせの違いによるのだろう。

 コロナの問題では、排除したいのは「死」という苦しみ。

 自殺と安楽死によって排除したいのは、「生」という苦し

み。

 その求めていることは真逆だが、希望や絶望は状況によっ

て生み出されるということをよく表している。
 

 コロナの問題では、“死を管理したい” ということが望み

だが、自殺・安楽死の場合は “管理された「生」から逃れた

い” ということが望みとなっている。


 “死を管理する” ということは、「死なないように生き

る」ということであり、そのまま “生を管理する” ことに繋

がる。ところが、「生」が高度に管理されてしまうと、人は

死にたくなってしまう。「自分は生きられていない」と感じ

るのだ。

 人というものは、程度の違いこそあれ、「死にたくない」

と「生きたくない」の間で常に揺さぶられているものなのだ

ろう。面倒な存在だ。


 その「面倒さ」の根底にあるのは “自然にさからって” と

いうことのようだが、それは人が “自然にさからう” ことが

出来るようになって生まれた問題だと言える。


 ほんの百年ほど前なら、人はウイルスの存在など知らず、

疫病が流行れば人は逆らうことはできずに弱い者は死んでい

った。人工呼吸器など無かったから、「安楽死」などという

考え方以前に、病によって自然に死んでいった。

 自殺は、三~四千年ぐらい前には、都市化した所ではもう

よくあることになっていたのだろうと想像する。

 歴史の違いはあれ、人が「自然にさからう能力」を持った

ことによって、「生」という自然からも、「死」という自然

からも乖離し、その乖離が人を苦しませる。


 人はいまさら「自然にさからう能力」を捨てることはでき

ないが、それが苦しみを生みだしていることを意識し、“自

然より自分の思考が絶対的に優先する” という立場から少し

身を引く方が賢明だろうと思う。ざっくり言えば、「ほどほ

どに生きて、ほどほどに死ぬ」ということになるだろうが、

こんな風にも表現したい。


 「ゆるりと生きて、すらりと死ぬ」(・・・なんだか爺ク

サイ言葉だけど・・・)


 「生」を管理し過ぎては、人は生きられない。

 「死」を管理し過ぎても、人は生きられない。

 けれど、人は管理することの罠にハマる。

 「ゆるり」と「すらり」と、「そこそこ」「ほどほど」に

生きられないものだろうか? 生きさせてあげられないもの

だろうか?

 私はそう生きたいと、そこそこ思うのだが。




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