2020年7月18日土曜日

無いものは無い



 二三日前の朝、突然こう気付いた。


 「無いものは無い」


 何か必要な物が無い時に、開き直ったようにして人はよく

そのように言う。けれど、ここで言う「無いものは無い」

は、それとはすこし趣きが違う。


 「無いもの」というのは、この世に「無い」。存在してい

ないのだ。


 「・・・? そのままじゃないのか?」


 分かりにくいと思うので、反対側から攻めてみる。


 この世界は「有るもの」だけで構成されている。


 当たり前過ぎる話で、「こいつは何が言いたいのだ」と思

われるだろうが、「無いもの」はこの世界の構成には全く関

わっていないし、関われない。だから、この世界に「無いも

の」というのは、「無い」のだ。


 やはり、まだ分かりにくいと思う。こちらも説明しづら

い。

 この世界には「無いもの」は無い。

 「無いもの」というのは、その定義上存在していない。存

在していないのだから、「存在するもの」で構成されている

この世界には、「無いもの」は無い。

 「無いもの」あるいは「無い」ということは、わたしたち

のアタマの中に概念としてあるだけのもので、この世界に

は、世界の構成に必要なすべてのものが「有る」。ところ

が、必要なものがすべて揃っているにもかかわらず、わたし

たちは四六時中「無い」と感じ、「無い」と言い、「無い」

と嘆く。

 すべて揃っているのに、なぜ「無い」と感じ、「無い」と

嘆くのだろうか?


 考えてみるに、これはかなりおかしなことですよ。

 「有るもの」だけで出来ている世界に生きながら、「無い

もの」が「無い」という当然のことを、「無い」と言って嘆

く・・・。これは狂気ではないですか?


 生きる為に必要なものを求めるというのは、生物として当

然だ。すべての生物が、まず食べるものを求めていて、今い

る所に食べ物が無ければ、「無い」と感じ、それを求めて行

動する。次に、子孫を残すために必要な状況が今いる所に足

りなければ、それを求めて行動する。その二点だけは、生物

としての必然だ。植物でさえ、光を求めて枝葉を伸ばし、水

を求めて根を伸ばす。その根底には「無い」という感覚があ

るだろうと思う。

 そのような、本能的な「無い」は、生きとし生けるものの

「生きる事情」そのものだと思う。


 「無いこと」が「苦」を感じさせ、「無いこと」を求める

働きが「生きること」となり、それ自体が「苦」となるけれ

ども、求めるものが得られれば「喜び」ともなる。それはた

ぶん人間以外の生物でもそうだろうと思う。食べ物にありつ

けば嬉しいだろう。少なくとも、そこには生理的満足がある

はずだ。生物にとって、「今、ここに無い」ものを探し求め

ることが、生きることそのものといってよいだろう。ただ

し、どんな生物であっても、必要な物が手に入れば、行動を

止めるものだし、その必要な物もシンプルな物だ。でも、人

間は違う。今生きていることに支障はないのに、何かが「無

い」と感じて苦悩する。

 そのために、時には他人を攻撃し、騙し、利用し、殺しさ

えする。また逆に、自ら命を絶ったりもする。すべてが揃っ

ているのに、それでは納得できなくて・・・。


 わたしたちは、他の生物とはかけ離れた次元で「無い」を

生みだす。

 すべてが揃っている世界の中で、「無い」「無い」「無

い」と意識の中で「無いもの」を生みだし続け、「有るも

の」を軽んじ、その価値を貶め続ける。

 わたしたちが「無い」を生みださなければ、世界に「無

い」は無い。


 世界はその始まりから終わりまで、常に「有る」「有る」

「有る」だ。「有るもの」だけで出来ている。「有るもの」

以外が有ったためしがない。

 そう思って自分の周りを見回すと、なんともこの世界は

「有る」「有る」「有る」・・・。無限に「有る」・・・。

言葉を失う・・・。これに驚かなけりゃ、ウソだ。驚けなけ

りゃ、もったいない話だ。もう世界中すべて、「有る」に満

ち満ちているんだから。


 すべてが有る。

 いや、「有る」がすべて。

 いったい何を望む?

 望むことが「無い」を生むのに。





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