2020年7月25日土曜日

生を明らめ 死を明らめ・・・



 「生を明らめ 死を明らめるは 仏家一大事の因縁なり」

という。

 生と死の本質を見極め、揺るぎない「死生観」に立つとい

うことが最も大事だということだろう。


 それはそうだ。人にとって、「死生観」がすべての価値観

の根本になる。それぞれの人の「死生観」が、その人の意識

の中心で、考え、行動を既定しているだろう。何も「仏家」

だけではない。すべての人にとって「死生観」を明らかにす

ることは一大事だ。

 ところが、現代では人は「死」を隠す。そして、「生」は

社会の “お話し” の中に準備されていると思っているよう

で、「生を明らめ 死をあきらめ」なんてことに普通は関わ

らない。それで問題無いと思っているらしいのだが、私から

見れば世の中は問題だらけだ。だって、みんな泣いたり怒っ

たり悩んだりしまくってるんだから。


 メンドウなことは考えない。だから「死」は隠す。できる

限り回避する。回避できない「死」は美化したり、怒りの対

象にしたりして、その本質については考えないようにする。

「生」は、世の中にお手本があるので、それに従っていれば

しあわせになれる。

 それが一般的な世の中のやり方だが、それで済ませられる

のかい?


 それで済ませられるのなら、それはそれでいいことなのか

もしれないが、私はそうは思えないし、皆がそれで済ませら

れているようにも見えない。先に書いたように、みんな泣い

たり怒ったり悩んだりしまくっているのだ。


 考えたくないことを隠したり、偽装したりしてごまかして

手に入れられるのは、まがい物、あるいは作り物だ。価値観

の根本が “作り物” だったら、それが生み出す価値も “作り

物” だろう。私は “本物” がいい。


 というわけで、私は「死」について考えざるを得ない。

 「死」について考えずして「死にたくない」と言うのは、

「生」の半分を無視する態度だ。だって、そもそも誰もが死

ぬのだから、それを拒絶していては「生」が “負け戦” のよう

なもので終わることになる。それこそ “死” ではないか?


 見るべきものは見るべきだ。知るべきことは知るべきだ。

考えるべきことは考えるべきだ。そして、素面で生きるべき

だ(私はいま、少しお酒が入っているけどね)。アタマが採

用した “お話し” に酔っぱらって「死」を拒絶している間

に、「生」を見損ね、知り損ねる。

 「生死」を “考える” ことこそが、「生きる」ことではな

いだろうか? そしてそれを “明らめる” ことこそが、人の目

的ではないのか? だから「一大事」だと言うのだ。


 この半年、コロナの騒ぎに付き合わされて、本当に呆れて

いる。


 「死にたくない」「死なせない」・・・。


 永遠に生きればいいさ。生きれるものならね。

 「一大事」を無視したまま、「生」も「死」もごまかした

まま、亡霊のようにね・・・。








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