2020年7月19日日曜日

自ら命を絶った者への・・・



 俳優の三浦春馬が自ら命を絶った。関わりの有った芸能人

などから、「悔しい」「生きていて欲しかった」「残念」な

どというコメントが発信されているが、なぜそんなことを言

うのか?


 一人の青年が、自ら命を絶った。その事に対して「悔し

い」とか「生きていて欲しかった」とか「残念」などと言う

のは、当人の人生に心を寄せた発言とは思えない。それらは

どれも、当人に対する “希望” や “批評” であって、そこに

は、当人の人生・心情に心を添わせてみようという真摯さが

感じられない。

 「自ら命を絶つ」という人生の終わらせ方をした人間の内

側に、どのような苦しみや葛藤や絶望が有ったのかを、例え

想像でもいいから、自分の価値観・ものの見方から一歩踏み

出して心を寄せてみようという、「友愛」とでも言うような

ものがそこには無いだろう。


 人にはそれぞれ事情がある。

 人はそれぞれものの見方が違い、価値観も違う。

 自分の事情・ものの見方・価値観からは出ようとはせず、

自分のテリトリーに留まったまま、自ら命を絶った青年に対

して何かを言うのは「愛情」や「思いやり」ではなかろう。

その発言は、三浦春馬のためではなく、その出来事のために

不安定になった自身の気持ちを安定させるためだろう。そん

なことのために口を開くのは上品なことではない。


 一人の青年が自ら命を絶ったのだ。ものを言うのであれ

ば、当人の内面に一歩でも半歩でも踏み込んで、その苦悩の

代弁をしてみようとしたり、一緒に絶望してみようとしての

ことであるべきではないか? それが例え推測から出ないも

のであったとしてもだ。

 少なくとも、そのような態度が、自ら命を絶った人に対す

る敬意ではないのか?


 誰にでも事情がある。それぞれにそれぞれの人生がある。

それは当人だけのことだし、それは当人の存在を越えてい

て、当人もそれによって動かされて行く・・・。

 三浦春馬が自ら命を絶ったのは、本人の選択ではない。

 誰も、自ら命を絶って人生を終わらせたいはずがない。

 苦悩と絶望の内に自ら人生を終わらせるという事情にあっ

た者に対しては、幾分かでも、その苦悩と絶望を追体験して

みようとするのが、それに関わろうとする者のすべきことで

はないか?


 人の人生に対して、 “型通り” のもの言いをするだけな

ら、黙っている方がずっとマシだ。

 黙って、その人生に思いを寄せてみれば、例えその千分の

一でも、その悲しみ、苦しさを感じられ、分け持てるかもし

れないではないか・・・・・・・





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