2022年3月11日金曜日

3.11 風化



 3月11日。

 十一年前までこの日は何でもない日だったが、いまの日本

人にとっては特別な日になった。なにしろ千年に一度ぐらい

のことが起きたのだからムリもない。ムリもないのだが、果

たしてその特別さがいつまで続くか?

 これまでにも特別な日はいろいろと有っただろう。終戦記

念日・原爆投下・関東大震災・大政奉還・・・・。


 いま挙げた他にもまだまだあるだろうが、その「まだま

だ」が思い浮かばない。言わば、歴史上の ″特別な日” という

ものはその程度のことなのだろう。“特別な日” が特別であり

続けることには限界が有る。


 人は生まれ死んで行く。

 世代が変わる。世の中も変わる。人は、実感していない事

を意識の中に強く保持し続けることはできない。その時代に

特別だった事も、その次の、またその次の時代の者にとって

は情報のひとつになってしまう。

 阪神大震災から27年。体験した者としては、それが実感

ではなく情報になったこと知っている。3月11日も、情報

になってゆく・・・。(追記 「阪神淡路大震災」ではなく

「阪神大震災」と書いてしまったことにも、それが現れてい

る・・・。ワザとじゃないですよ)


 「風化させない」とか言う。

 「いやいや、風化しますよ」と、私は思っている。「それ

でいい」とも思っている。なぜなら、その時、その時代に起

こったことは、その時々の、その人たちの「事」なのだか

ら・・・。後の世代の人たちには、その人たちにとっての 

“特別な日” が待っている。

 後の人々に、過ぎた日の「特別さ」を受け継がそうという

のは、結局のところ、いまの人のエゴなのだろうと思う。受

け継いでもらうべきはその “特別さ” ではなく、ある事を “特

別” と思ってしまう、「世代」というものの浅さを知ること

ではないだろうか?

 わたしたちは「世代」を越えなければならないのだろう。


 わたしたちの祖先は氷河期を生き延びてきた。

 縄文時代に九州にいた人々は、鬼界カルデラの噴火によっ

て全滅した。

 そのような “特別” な出来事を、わたしたちの祖先は経験し

てきた。

 が、そんなこと、当然ながらいまは誰も憶えていない。地

質学者や考古学者が伝えてくれはするが、それをある程度リ

アルに受け止める人はごくわずかだ。

 過去からの伝承や、科学の丹念な仕事を示されても、それ

は大抵「情報」にとどまる。その “「情報」にとどまる” とい

うことを受け入れるべきなのだと思う。

 それぞれの時代の、それぞれの世代が、結果的にほとんど

過去から学ぶこと無く、自分たちの世界を生きる。それは歴

史に明らかだ(いまのロシアがいい見本)。そのように、

「世代」というものは浅い


 「世代」というものが浅いのは、ひとりの人間が、人類の

膨大な歴史を、ポイント的にではあれ、実感的に抱えなが

ら、新たに自分の歴史を生きるということに無理があるから

だろう。容量不足なのだ。だから「風化」する。

 ある “特別な日” のことを継承し続けようとするのは、いず

れ徒労に終わるだろう。


 身も蓋も無いことを書いて恐縮だけど、それが事実だろ

う。それを受け入れた上で「さて、何が残せるか?」と考え

てみる方が良いのではないだろうか?


 では残すべきなのは何か?

 “特別ではないこと” の持つ、意味と実感ではないだろう

か?


 わたしたちの日常の中の、ありきたりのことのさらにさら

にその中の、本当に、徹底的に “特別ではないこと” 、に目を

向ける。

 それは、人にとって普遍的で「世代」を越えているはず

だ。そして、人である限り、どの時代の誰にとっても深い意

味を持っているはずだ。それを実感することを継承すべき

だ。

 “特別な一日” の事は風化していい。もとより、それを止め

ることはできないだろう。

 特別なことは、「特別ではない」と思われていることの方

ある。



 

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