2022年3月2日水曜日

失敗を目指して



 ずいぶんなタイトルを挙げて始めてしまった。

 大抵の人は、人生の中で大なり小なり「成功」を目指す。

当たり前です。

 普通一般からすれば非常識で、時には荒唐無稽なことを語

るいわゆる「スピリチュアル系」の話にも「成功」という言

葉はよく出てくる。さすがに「起業して大金持ちになっ

て・・・」みたいなことは言わないが、やはり「自分を成功

する」みたいな文脈で語られる話が多い。


 そこで・・、というわけでもないけれど、逆から考えてみ

ようということで、「失敗を目指す」という言葉からはじめ

ると何かおもしろいことになるのではと思って書き始めてい

ます。


 さて、わたしたちは「失敗」を目指すことができるでしょ

か?

 勘のイイ人なら、もうすでに何かを嗅ぎ取ってらっしゃる

かもしれない。わたしたちは「失敗」を目指すと、かならず

「失敗すること」に失敗する。


 ある目的に「失敗」しようとして、首尾よくその目的の達

成に失敗すると、「失敗を目指す」という目的に「成功」し

てしまうことになる。いやいや「成功」してしまってはいけ

ないではないですか。「成功」してしまったら、それは「失

敗」です。え?「失敗」したのなら「失敗を目指す」ことに

「成功」か・・? いやいや「成功」したら「失敗」だろ

う・・・・?


 話をすり替えながら、面倒臭い言葉遊びをして何を言いた

がっているかと言うと、「一度、失敗を目指してみません

か?」ということのようです。

 わたしたちは、わざわざ「失敗」することはできないよう

です。


 「成功」しようとして「成功」することもできますが、

「成功」し続けることは不可能です。必ず「失敗」すること

になります。一方、「失敗」しようとすると、一義的に、表

面的には「失敗」できますが、必ず「失敗」し損なうことに

なります。それが表しているのは、実は「失敗」というもの

は存在しないということです。わたしたちが「成功」を目指

さない限り、「失敗」は存在し得ない。


 このことが何を意味するか?

 わたしたちのアタマ(意識)が「何か」を目指さない限

り、わたしたちの生には「失敗」は無い。究極にシンプルな

意識で生きるなら「失敗」しようがない。

 「失敗できるものならやってみろ。出来やしないさ」とい

うお言葉が天から降ってきそうなぐらいです。


 わたしたちは、何かの「成功」を目指して生きるように、

社会から強い刷り込みをされてしまっているので、何度も何

度も何度も、限りなく「失敗」を味わい、苦しむことになり

ます。だったら「成功」を目指さなければいい。さらに一歩

進んで「失敗」を目指してみればいい。

 思考実験でいいです(仕事中に「失敗」しようとかしない

で下さいね。えらい目に合いますから)。「失敗」しようと

してみて下さい。意識の中で何が起こるか?どんな感覚を覚

えるか?


 ある種の解放感のようなものを感じるのではないでしょう

か。

 「成功」という概念の縛りから離れると、自己否定感が消

えることでしょう。

 社会に教え込まれた価値観や、評価する意識がどこかへ消

えて、そのままの自分の “厚み” のようなものが感じられたり

しないでしょうか? たぶん、それが掛け値なしの “自分” な

のだと思います。


 社会から刷り込まれた価値観によって、わたしたちは “自

分” を見失っている。


 「何かを成し遂げなければ」

 「何かにならなくては」

 この社会で生きている限り、そういう意識を無くすことは

できないでしょう。けれど、それは「お話し」です。「おま

け」です。本当は “自分” と関係の無いことです。

 本当の “自分” は、そのままで「失敗」とは無縁の、すでに

成し遂げているすでに自分に成っている “自分” です。


 自分の価値を計るハカリは存在しない。

 その単純明快なことに気付けないほど、わたしたちは社会

の刷り込む「成功」の副作用に侵されています。

 そして自分を追い詰め、他人を追い詰め、苦しみもがいて

いる。

 それは、ほんの一時の「達成感」を得る代償としては、あ

まりにも割が合わないと、私には思えますが・・・。


 「失敗」してみませんか?





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