2022年3月13日日曜日

しあわせとは



 私はしあわせなのです。

 本当は、他の人間の不しあわせに付き合う必要もないので

す。

 けれども、もし私が自分一人でしあわせでい続けたらどう

でしょう?

 私のまわりの誰もが、生きることに右往左往し、泣いたり

苦しんだりしている中で、理由も無く(無いように見える)

ひとりで「ニコニコ」「ヘラヘラ」していたらどうでしょ

う?


 他の人たちは困惑するでしょうね。そして怒るでしょう

ね。

 「コイツはいったい何だ?」

 「こっちはエラい思いをしてるのに、なぜコイツは意味も

なく嬉しそうで、 “ノープロブム” みたいな顔をしてるん

だ?」と。

  そして、ヘタをすれば攻撃され、殺されてしまうかもしれ

ません。


 私は歴史から学ぶので、その可能性を否定できません。殺

されてしまえば、せっかくのしあわせも感じられませんし、

家族もあるので、さしあたり生きていなければならないので

す。なので、不本意ながら、他の人の不しあわせ(右往左

往)に付き合っています。つまり、世の中に合わせて生きて

います・・・。


 随分と傲慢なことを言っているように思います。「お前は

何様だ」という感じかもしれません・・・。が、私は単にひ

とりの人間です。それは誰もがそうです。その “単なるひと

りの人間” である私が「私はしあわせなのです」と言ってい

るのですから、私以外のすべての人も「しあわせ」なはずな

のです。「しあわせ」に違いないのです。


 「しあわせ」とは何でしょうか?


 私は、“「しあわせ」とは、しあわせが何であるかを知って

いること” だろうと思っています。


 「しあわせ」が何なのかを知ればよい。それだけのことな

のです。なぜなら、「しあわせ」は誰もが持っているものだ

からです。いや、持っているという表現は適切ではないです

ね。誰もが「しあわせ」の中に存在しているのです。“「しあ

わせ」に持たれている” とでも言えばいいのかもしれませ

ん。なので、「しあわせ」が何であるかを知ればそれで済ん

でしまいます。「ああ、なんだ、始めっから終わりまで、し

あわせなんだ」と。


 と、これでは要点が分かりませんね。“結局のところ「しあ

わせ」とは何なんだ?” と思われてしまいます。

 「しあわせ」とは、「いま自分が在る。いま世界が在る」

という気付きのことです。それだけが「しあわせ」と呼べる

もので、それ以外の、意味の世界にあるものは「しあわせ」

ではありません。そして意味の世界の外には「しあわせ」し

かありません。


 「いま自分が在る。いま世界が在る」と気付いている程度

のことが、なぜ「しあわせ」なのかと訝しんでおられるかも

しれませんが、その理由は、実際に「いま自分が在る。いま

世界が在る」ということだけに心を落ち着かせてゆけばわか

ります。そこは、絶対に安定していて、ほのかな暖かさと

びがあるからです。そして、そこからは、置いてきぼりに

れて不安がっているエゴの狼狽が見てとれることでしょう。


 「こんなに不安なのに、何が “しあわせ” だ!」と訴えてい

るかもしれません。けれど、そのエゴの訴えを聞いているも

は何か? それは明らかに、エゴとは違う部分の自分でしょ

う。

 その超然として平静な意識が、自分の中にも、世界中にも

常に在り続けている。

 私は、それを「しあわせ」と呼んでいます。




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