2022年5月28日土曜日

AED の価値は?~ むやみに救われる命について



 AEDというのを、あっちこっちで普通に見かけるようにな

って久しいけど、「あれってどれぐらい使われてるんだろう

か?」とよく思う。思うだけだったんだけど、今回は調べて

みた。すると、2019年度に全国で1300人ぐらいに使

われたそうだ。「意外と多かったな」とは思ったけど、病院

以外で心肺停止に陥ったひとは12万6千人程度だというこ

となので、AEDが使えるような状況で倒れる人は、その中の 

1 %ぐらいのようだ。

 で、私の感想は、「あれ、やっぱり要らないんじゃな

い?」。


 全国の設置台数が62万台だそうで、価格は22万円ぐら

いで、耐用年数が7年程度。計算すると、AEDの市場は年間

200億円ぐらいということになる。


 年200億円かけて、1300人に使用する(命が助かる

人は、その中の200人ぐらいらしい)というのは、社会的

に妥当なものだろうか?その200億円を別のことに使った

方が、日本人の幸福に資するような気がするが・・・。


 こういうことを迂闊に言うと、「お前は人が死んでもいい

のか!」と、どこかから怒号と石が飛んで来るはずなので、

こうやってネットの辺境で呟いている。

 でもね、「生き死に」って、やっぱりコストの問題抜きに

は語れないはずなんですよ。単にお金の問題だけではなく

て、いろんな意味でのコストですけど。


 昔は、口減らしの為に、生まれた子を産婆さんが座布団の

下に入れて窒息死させて「死産だった」ということにしたり

(地方によって、「死産にしてくれ・・」という暗黙の合図

があったりしたそうだ)、姥捨て山が有ったりした。

 現代でも、お金の有る無しで受けられる医療のレベルは違

うわけだし、避妊するのは事前の口減らしとも言えるわけ

で、「お前は人が死んでもいいのか!」と怒る人は、その辺

りのことを見ずに、キレイごとを言っているんですよね。


 救急医療が発達して、少しは死ぬ人が減ったのだろうけ

ど、その一方で障害を持つ人は増えただろう。私が子供の頃

には脳卒中の後遺症の人なんてまず見かけなかった。倒れた

ら、大抵そのまま亡くなっちゃったんだね。けど、いまはそ

こそこ助かる。そして、家族や本人はその時は「良かっ

た!」と思うのだけど、重い障害が残ったりすると、あとで

いろいろと悩み苦しみや家族間の問題が生まれたりすること

は、よくあることだそうだ。


 私たち夫婦は、「倒れて意識不明になったら、一時間は救

急車を呼ぶな」(手遅れにしろということです)なんてお互

いに言っているぐらいなので、「むやみやたらに “命を救う” 

のは、いかがなものか?」という考えです。実際にそうなっ

たら慌ててしまって、つい救急車を呼んでしまうかもしれな

いけど・・。


 AED のことでも、いろいろな薬や医療技術・制度にして

も、コストの割には命を救えていないように思えるし、命を

救えてもそれが人にとって本当に良いことなのか?

  現代の、「命」と「幸福」の価値観が絶対のものでもない

だろう。そこを “問答無用” に切り捨てているのは良くないだ

ろうと思う。


 〈 死は、われわれが必ず支払わなければならないものだ 〉

と、誰かの名言にあったけど、死を忌み嫌い、隠し、無いこ

とにしていると、生きることが痩せて、貧相になるだろう。


 現代の日本は、むやみやたらに命を救おうとし過ぎじゃな

いのだろうか(チョー問題発言だなぁ)? その一方で20

0代の死因のトップは自殺なのだ。

 そういうことを考え合わせると、私は「命」より「(本質

的な)暮らし」を救って欲しい。

 生物的な生存を無理やり(理不尽にと言うべきか)維持す

るより、その分の社会的コストを「暮らし」の平安の為に充

てて欲しい。それは却って人々健康にするだろうし、「暮ら

し」に(本質的な)平安がもたらされれば、死を受け入れる

ことも難しくなくなるだろう。


 一年に200億円をかけて200人の命を救う AED。

 200億円あれば、200人どころかもっともっと多くの

自殺する若者たちの命と暮らしを救う力になると思う

が・・・。


 前にも書いたけど、本当に「命」を守ってくれよ。

 本気で「命」について考えてくれよ。

 やはり、そう思う。



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