2022年5月15日日曜日

「現実」って言うけどね・・・



 毎日、ロシアのウクライナ侵攻のニュースが続く。「本当

にそんなことおきているのか?」という気もする。なにせ、

この目で見たわけでもない。

 私の住む世界は平和そのもので、困った人間もいるにはい

るが、生活が壊されるようなことはない。そもそも、ここ数

年で、私の “現実感” というものはかなり希薄になっている。

自分の生活や命さえ、なにやら他所事のようなのに、遠い国

で、ましてや戦争が起きているなどということには、“現実

感” など持てない。

 私は昔から、他の人よりも “現実感” というものが希薄なよ

うに思う。もちろん、他の人の “現実感” と、自分の “現実

感” を比べることはできないけど、話を聞いたりしてると、

他の人たちは、「現実」というものを、かなり確信的に「現

実だ」と思っているようだ。


 「現実が現実なのはあたりまえじゃないか!」。そう思わ

れるかもしれないけれど、実際、「現実」を「現実だ」とあ

まり思えない人間が、ここにいる。しかも、最近はその度合

いが強くなっている。そして思う。「そもそも現実って、

何?」。


 こういう、人の認識の根幹に関わる言葉は自己矛盾をはら

んでしまうことが多い。

 「正しい」という言葉を正しく定義できないように、「現

実」という言葉、概念も矛盾をはらむ。「現実」というもの

を定義している、その思考は “現実” か?


 「現実」について、養老孟司先生がこう定義している。

 「その人の行動に影響を与えるものが “現実” だ」と。なる

ほど、よく分かる。


 先日、「銀河の中心にある巨大ブラックホールの影を撮影

できた」というニュースがあったけど、そのニュースに驚い

たりする人にとっては「現実」だ。けれど、「なにそれ?」

と聞き流す人にとっての「現実」には関係ない。「どうでも

いいこと」だ。

 それで分かるのは、「現実」というものは個人的なもので

あって、この世界に普遍的な「現実」というものが有るわけ

ではないということ。


 「いやいや、手に針を刺されれば痛いじゃないか」などと

思われるかもしれない。けれど、それは身体的な「反応」で

あって、いわゆる「現実」というものではないだろう。わた

したちが日常的に「現実」と呼んでいるものは、大なり小な

り、ある “物語” を持っているもののことで、自分が持つ世界

の “物語”(イメージ)の構成要素になっているもののことで

あり、実態を「現実」だと思っているわけじゃない。


 ミサイルが飛んで来てビルを爆破する。

 それを「ミサイルで攻撃された!」と言う。その言葉に

は、「ミサイルが飛んで来てビルを爆破した」という実態

だけではなく、遠い所にいる軍隊やその国の指導者の意思が

おもんばかられ、いつの間にか付け加えられている。実態は

すぐに “物語” へと変えられる。そして、その “物語” が「現

実」として扱われる。


 今回の侵攻が起きて、ウクライナの人が沢山避難したけれ

ど、もしも誰一人避難せず、いつもと変わらぬ暮らしをし続

けたらどうなっただろうかと思う。

 ロシアの戦車が道を通っても、ダンプカーが通ったように

意に介さず、人が撃たれて倒れても、急病で人が倒れたよう

に周りの人が助けたり、建物が砲撃されても、ガス爆発でも

起きたように処理に努め、ロシア兵を見ても自国の警察官を

見るように気に留めず、彼らに連れ去られても、自国のマフ

ィアの横暴のように対処したら?

 ウクライナの人々にとって、そこに「戦争」というものは

存在しないことになる。


 もちろん、そんなことは「現実的」ではない。人類の歴史

上、大小、数えきれないほどの戦争が行われてきたけれど、

上に書いたようなことが行われたことはないだろうし、これ

からもないだろう。

 けれど、暴力というものは、相手が怖れ、脅威に感じてく

れなければ、その力は大きく削がれる。攻撃している側は拍

子抜けしてしまい、自分たちのしていることに虚無感を憶え

るのではないだろうか?「自分たちは何をやってるんだろ

う?」と。


 禅の言葉に「端坐して実相を思え」というのがある。「起

きていること、見ていることに自分の考え(物語)を持ち込

んでウロチョロするな」という。

 「莫妄想」というのもある。「妄想するな」と。やはり

「物語を持ち込むな」というのです。


 ある人の “物語” が別の “物語” を刺激して、それぞれの人

のアタマの中で “物語” が変質し続ける。そういった “物語” 

の総体が、世の中の「現実」というものでしょう。みんな 

“物語” (妄想)の中に生きている。それを「現実」と呼んで

いるけれど、その「現実」はそんなに良いものか?


 窓の外に青空が広がり、街路樹が風に揺れ、スズメが鳴

き、小学生が笑いながら走って行く・・・。そんな日常の風

景を見ていたら、戦争する気になんてなれない・・・。戦争

する気になれるなんて、また、誰かを戦争する気にさせるな

んて、妄想の中に生きている証拠だろう。人間のアタマは

ホントに悪い。


 他人の下品な妄想に付き合いたくはないけど、そういう連

中はそれを「現実」だと思っているので、どうしても付き合

わされてしまったりする。「ああ、ヤダ・・・」と思うけど

仕方がない。それが浮世というものなのだ。


 もし、私の街にどこかが侵攻して来たら、銃を構えた兵隊

がそばに来ても、いつも通り花に水をやっていたいものだ。

それで撃たれて死んだら、それでいい。もう若くもないし。

   これも妄想だな。



 
 


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