2021年4月14日水曜日

「待ち受け」状態に・・・・

 

 この度、家族からの要請によってスマホを持つことになっ

た。以前に書いたことがあるが、私はこれまでケータイとい

うものを持ったことがない。そんな私がスマホを持つなん

て・・・。富士山でも噴火するかもしれない。噴火したらご

めんなさい。でも私のせいではない。


 このご時世、何が起こるか分からないので連絡が取れるよ

うにしておいてほしいというのだが、何が起こるか分からな

いのはいつのご時世でも同じだ。さらに、何が起こるか分か

らないのであれば、ケータイが繋がらないということも起こ

り得る。さらに言えば、数時間連絡が付かないからといって

大した違いもあるまいと思う。すぐに連絡が付こうが、連絡

が付かなかろうが、「何か」が起こってしまった後の「連

絡」なのだから、どちらにしても事後処理で、後の祭りだ。

 家族には以前にこのブログに書いた『スキャンダル・クラ

ブ』(2018/4)という話でも読んでもらいたいところだが、

このブログを家族に見せるつもりは無い。ということで、代

わりに、いまこれを見ているあなたに読んでもらいたいと思

う。おもしろいと思うので。


 スマホを持つことにしたのは、持ってなくても不便だとは

思っていないが、有ればいろいろ役に立つのは分かっている

し、料金も安くなってきたことなので、頑なに拒むことでも

ないから、「そろそろいいか」という気になっただけのこ

と。けど、あまり使わないだろうな。これまで使う事情が無

いから持っていなかったわけで、それは変わらないからね。


 「スマホは必需品」という言葉をちょくちょく耳にするけ

ど、これまでそれを持たずに来た私は一体どういう人間なの

か? 「必需品」であるものを持たずにこれまで生きて来たの

だから、スマホは人間にとって「必需品」ではないだろう。

私がそれを証明している。「スマホは必需品」という人間

は、「スマホが必需品であるような生き方」に自分を追い込

んできたということであって、ただの依存症か、他人の動向

が気になる人か、何かの見当違いをしている人だろう。「必

需品」というのは最低限の衣食住の事であって、それ以外は

何であれオマケ、おなぐさみ、贅沢品の類いだということを

忘れると、人は道を誤る。縄文人なんて、それこそグリコの

オマケ程度しか物を持たなかっただろうけど、しあわせを感

じてたと思うよ。むしろ、現代人よりしあわせを感じること

が多かったかもしれない。


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 ということで数日が経ち、いま私はスマホを手にしてい

る。

 実際に持つとよく分かるのは、常に、意識の中に薄っすら

と「スマホに何かの通知が来ているかもしれない」という意

識があるということ。私の意識の一部が常に「待ち受け」状

態になっている。スマホが「待ち受け」でバッテリーを消費

するように、私の意識の一部のエネルギーが常に少し消費さ

れ続けている。社会のしがらみがまた一つ増えた。ああ、メ

ンドウだ。みんな、こんなメンドウなことよくやってるな

ぁ。


 先日、田中邦衛さんが亡くなったが、『北の国から』の五

郎さんのセリフでこういうのがあったな。


 「“知る権利” ってのがあるだろ? 俺のは、“な~んも知ら

ん権利” !」


 社会とむやみに繋がると、いらないエネルギーを使うこと

になる。けれど、まぁお付き合いもしなくちゃならない。こ

れも「ご縁」だということで、程々にたしなんで行こうと思

っている。


 ふと、『2001年宇宙の旅』を思い出した。「モノリス」の

形はスマホのようだと。

 人は知恵と道具を手にするごとに、知恵と道具を利用して

いるつもりで、知恵と道具に縛られてゆく・・・。そしてそ

の分だけ、しあわせから遠ざかるのだろう・・・。

 気を付けよう・・・。




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