2020年11月20日金曜日

"自分” が無い時



 前回の最後の方で、何の気なしに「“自分” は無い方がしあ

わせなんだから」と書いてしまった。このブログを今まで読

んだことがない人が見たら、「何それ?」「どういうこ

と?」という話だろうけど、まぁそういう話ばかり書いて来

たので、書いてる当人からすれば当たり前のことです。

 大阪では「『551の豚まん』が有る時」がしあわせなのだ

そうだが、私のところでは「“自分” が無い時」がしあわせな

んです。「二日目のカレーは旨い」ぐらいの常識です。

 でもまぁ、よい話のキッカケになると思ったので、なぜ

「“自分” は無い方がしあわせ」なのかを解説することにしま

す。


 わたしたちがどんなに努力したとしても、どんなに幸運に

恵まれたとしても、“自分” というものの中に「しあわせ」が

発生することはありません。首尾よく事が運んだとしても、

“自分” の中に発生するのは「幸福感」や「満足感」という

“感覚” に過ぎません。それは一過性の心理状態にとどまり

ます。結婚式で「幸福感」に涙したカップルが、ハネムーン

先でケンカするなんてザラですし、「あ~、美味かった!腹

いっぱい!」と満足した奴が、「食べ過ぎて気分悪い・・」

とか言ってるのもよくある事ですね。

 一事が万事で、普通、人が「しあわせ」だと言うことは、

「幸福感」や「満足感」という言葉で表される、“肯定的な気

分の一時的なピーク” でしかない。 すぐに減退してしまうの

です。そして、次のピークを求めて動き出す・・・。


 では、なぜ “自分” の中には、「しあわせ」ではなく、「幸

福感」や「満足感」という、「感」しか生まれないのでしょ

うか? 


 「分ける」からです。

 わたしたちのアタマは、ものを分けます。

 まず、世界と自分を分けます。分けるからこそ「自・分」

というものが存在できます。

 そして、あらゆることを「自分」の都合で分けます。その

ために言葉が存在するのか、言葉が存在してしまったために

分けるしかなくなったのかは判然としませんが、人は世界を

分けざるを得ません。自分に起こる事も分けざるを得ませ

ん。区別し、判別し、選別し、差別し、当然の成り行きとし

て、そこには評価が生まれます。良いか悪いか、上か下か、

大きいか小さいか・・・。わたしたちの、そのアタマの癖

が、喜びや安らぎでさえ切り取り、評価の対象としてしま

う。どんなに望ましいことでも、“思考のかけら” として貶め

られ、「そのとき」の「ひとつの気分」という断片でしかな

くなってしまう・・・。私は、「しあわせ」というものを、

そのような断片だとは思っていません。そのようなものだと

は思いたくないし、そのつもりも無い。私は、自身の体験上

「しあわせ」というものは、もっともっと広大なものである

と実感している。昔、たまたま、その「広大さ」を一瞥した

のでね。


 その “「分ける」自分” を仕分けして、脇にどければ、そこ

には “「分けない」意識” というものが存在する。


 それは「分けない」。

 「絶対開」として在る、“すべてに「開いている」意識” 。


  “すべてに「開いている」” のだから、そこには「不満」の

生まれようが無い。

 そのような “「不満」の生まれようが無い” 在り方を、私は

「しあわせ」と呼びたい。


 そのようなわけで、「“自分” は無い方がしあわせなんだか

ら」という話になるのですが、真っ当な話だとは思いません

か?


 ちょっと疲れちゃったので、「真っ当だ」と思えない人の

為の話は、この次に。





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