2020年11月23日月曜日

真っ当な(真っ当であろう)話。



  “「分ける」意識” を脇にどければ、しあわせになる。


 そんなことをこの前書いて、その続きを次に書こうとして

いたのだけれど、家の前でイソヒヨドリを見かけたものだか

ら、そっちに気を取られて、「続き」を書くことを忘れてし

まい、別の話題を書いてしまった。

 ということで、一回飛んで、今回が続きです。


 “「分ける」意識” を脇にどければ、しあわせになるという

が、なぜ真っ当か?


 「しあわせ」という言葉は、「し合わせる」  「し」は

「彼が料理を・・」などという時の「し」で、「物事が行

われる・起きる」という意味だそうだ  ということで、

「物事と物事が合わさって良い状態になる」ことから来てい

る言葉だそうだ。「良いめぐり合わせ」、要するに「ラッキ

ー(幸運)」ってことですね。でも、私が言いたい「しあわ

せ」は、「ラッキー」ということではない。「ラッキー」か

らも「アンラッキー」からも解き放たれた状態を、しょうが

ないので「しあわせ」という言葉で表しているんです。

 「安心(あんじん)」とか「涅槃」とか「解脱」とかいう

言葉を使えばいいんですが、それだと仏教臭くなる。これま

での話の流れでは使いたくないんですね。日本人には宗教ア

レルギーみたいな人が大勢いるので、はじめから「今回は仏

教について語ろう!」みたいなことでなければ、“仏教丸出

し” 感のある言葉は使いたくない。

 で、仮に「しあわせ」という言葉を使ってるわけですが、

本当は言葉にできない。


 言葉は「分ける」ことで初めて成立し、機能するのです

が、私は “「分ける」を脇にどける” と言っているのですか

ら、それは言葉にできない。あえて強引に言えば「すべが合

わさっている完全な状態」が本当の「しあわせ」とでも言う

のでしょう。


 実際に、わたしたちの目の前には世界がある。自分の身体

も世界の一部としてある。その中に自分の思考があり、それ

らに気付いているこの意識がある。それを誰も否定しないで

しょう。(真っ当でしょ?)

 その “世界” を「分けない」。

 「分け」なければ、世界は丸ごとそのままここに在るわけ

です。というより本当は「分けられない」ものを、アタマが

「分けた」つもりになっているに過ぎない。アタマが「分

け」ようが、意味付けしようが、そんなことは関係ない。“世

界” はアタマの右往左往も飲み込んで、そのまま、丸ごとの

ままに在り続けている。「すべてが合わさっている」その 

“丸ごとのままの味わい” を「しあわせ」と言っています。


 その “丸ごとのままの味わい” というものが、誰の中にも常

にあるのです。アタマが「分ける」からそれが分からなくな

るのです。いや、気付けなくなるのです。


 実は、わたしたちはいつもそれに気付いている。いつも

を味わっている。けれど、普段は、自分が生きているとい

うことを忘れて、生きている。普段は自分の心臓が動いてい

ることを忘れて生きている。自分の周り全方位にこの世界が

広がっていることを忘れて生きている。それは「分ける」か

ら。「分けたもの」に意識が向くから。そのせいで、他のす

べてを忘れてしまうから。


 アタマは、四六時中、世界を分けている。それは止められ

ない。

 無心になんてなれない。

 思考を止めることはできない。

 無我になんてならない。

 苦しみはなくならない。


 でも、無心で無思考で無我の、〈意識の本体〉とでも言う

べきものがわたしたちを包んでいる。わたしたちの中にまで

広がっている。そこから、悩んだり苦しんだり怒ったり笑っ

たり欲張ったり悲しんだりしているアタマの右往左往を観て

いることはできる。実は誰でも四六時中そうしている。アタ

マの大騒ぎに気を取られてしまっているだけなんだ。


 自分が悩んだり苦しんだりしている時、悩んだり苦しんだ

りしていることを〈自分〉で気付いているでしょう? その

〈自分〉はどこにいるのか?


 「分ける」ことから逃れられないアタマの、後ろに、周り

に・・・。

 アタマが走り回るフィールドとして、アタマが思考を描く

キャンバスとして、“丸ごとのまま” を味わっている〈意識の

本体〉がある。

 実は、誰でも、いつでも、そこにいる。

 そこには、「しあわせ」しかない。


 すごく真っ当な話だと、私は思いますが。

 もしかして「狂ってる」?



0 件のコメント:

コメントを投稿