2024年4月14日日曜日

無・責任



 タイトルには「無」と「責任」の間に「・」が打ってあり

ますね。「無責任」という言葉とからめての表現なのでこう

いうタイトルにしましたけど、今回書きたいことは「無の責

任」ということです。あらゆる「責任」は自分に有るのでは

なくて、「無」の方に有るという、究極に「無責任」な考え

をご紹介しようということです。


 「“「責任」は「無」の方に有る” ? なんじゃそりゃぁ?」

そんな感じでしょうか? なので「無」についての説明が必要

ですね。


 老子は「無為自然」と言っていて、その「無」が説明した

いことなんですが、そのために先に親鸞の言葉に触れなけれ

ばなりません。

 親鸞は「自ずから、然(しか)らしむ」(自ずから、そう

あらしめられる)と言っています。なのでその言葉を手掛か

りにすると、「無為自然」というのは「無の為(な)すこと

によって、自ずからそうあらしめられる」という読み方がで

きます。


 親鸞は “「阿弥陀仏」の働きによって自ずからそうなる” と

言っているのですが、老子の言葉では、それ(阿弥陀仏)が

「無」という言葉で表現されているわけです。どちらにして

も、この世界そのものの働きによって、すべては自ずからそ

なると考えているわけです。


 老子は「無為自然」と言い、親鸞は「南無阿弥陀仏」と言

う。表現は違えど、どちらも言っていることは同じで、「オ

レの知ったこっちゃね~よ😊」と言っているわけです。

 完全に無責任で、すべては「無の責任」。だから「知った

こっちゃね~よ😊」と・・・。


 で、いまのような世の中では、こういうような無責任な態

度は断罪されてしまうし、自分自身でも罪悪感を持ちそうで

す。けれども老子や親鸞は罪悪感を持たない(親鸞は断罪は

されましたが)。なぜなら「責任」と同時に、自分の「(社

会的な)価値」を認めていないから。

 社会的な「責任」と「価値」はバーターですから、片方が

なくなればもう一方もなくなる。そうして老子と親鸞は、

「責任」と「価値」という束縛から解放されて自由になっ

た。


 すべては「無」に責任があるので、「無」の為すがままに

任せていれば良い。もとより任せるしかない。自分の出る幕

はないし、できることもない。すべては「無」が行う。この

自分の運・不運も、生かすも殺すも・・・。

 「無」の働き(無為)に身も心もあずけて、その流れのま

まに流されて行く気楽さは、実は誰でも知っている。生まれ

てくる前。母親のおなかの中で何も考えずにいた時に・・。

 アタマが悪い・・・。



 

2024年4月13日土曜日

良く生きるとは



 せっかく生きてるんだから良く生きたいと思うのは、誰に

とっても当然のことだろうし、そうあるべきだろう。はっき

りとそう意識しているかしていないかにかかわらず、誰もが

良く生きようとしているだろう。ただ、人それぞれに何が

「良く生きること」かが違うようなので、誰もが「自分は良

く生きているのだろうか?」という心もとなさを持っている

ようだ。人というのは比べるのが習い性だから。


 「良く生きる」とはどういうことか?

 別に何も難しいことはない。要するに「満足して生きる」

というだけのことだろう。それだけの話なのだけど、人それ

ぞれに満足する条件が違うので、他人を見て「あれ?自分の

やってるのは間違いなのかな?」などと思ってしまって、何

やら難しく考えてしまったりする。しかし他人は他人、気に

する必要はない。自分が納得し、満足していれば、何の問題

もない。

 とはいうものの、自分なりにでも満足することはなかなか

難しい・・・、そう思う人が大半だろう。でもそれは「満足

すること」について勘違いをしているだけだ。


 「勘違いをしているだけ・・」と表現したけれど、この勘

違いがとんでもない大問題を生み出しているので、「・・だ

け・・」などと言っている場合でもない。天国と地獄の分か

れ目ぐらいの違いが有る。


 先に「満足して生きる」と書いたけれど、こういう表現を

見聞きすると、普通は「満足を求めて生きる」と考えて、満

足するために、精神的、身体的、社会的に何かをしようとし

る。満足の為に生きることになるだろう。けれども私が言い

たいことは違う。「満足して生きる」とは「満足してから、

生きる」ということ。

 まず満足してしまった上で、さまざまな「生きて行くこ

と」をこなして行くのです。


 「まず満足するなんて、どうやって?」

 そう思われるかもしれない。けれど何も難しくはないので

す。単に、満足すればいいのです。いますぐ。このままで。


 満足するのは誰なのか? もちろん自分です。

 自分を満足させるのは誰なのか? それももちろん自分で

す。

 満足するのは自分の仕事。自分の裁量です。自分の自由に

できることです。けれど、誰もがそれを認識していない。満

足は、誰かや何かとの関りの中で得るものだと思っている。

それが大変な勘違いです。

 いま生きている・・・ならば満足できるはずなのです。


 生まれてくるときに、用事も目的も与えられていないので

す。単に生きてゆく為に生まれてくるわけです。ならば生き

ている時点で満足でいられるはずなのです。

 ところが生まれてすぐから、世の中から、比べる習性と目

的意識を刷り込まれてしまうので、生きていることを達成し

ている自分に目が向かなくなってしまう。


 世の中に教えられたような条件を気にすることなく、満足

してしまえば良いわけです。まず満足してしまえば、生きる

ことは余興のようなものです。

 満足した上でのことなら、いわゆる、良いことが起きたら

「おお!ラッキー😆」。悪いことがあっても、「ああ、こう

いうのもあるわけね😅」という感じで受け止められる。


 「満足」という😊 状態が基本なので、出来事によってはそ

こにちょっとした「快・不快」の揺らぎがあるだけ。

 そのようにして、日々を受け止めて行くなら、それこそが

「良く生きる」ということ。「機嫌良く生きるということ」

でしょう。




 

2024年3月31日日曜日

夢かうつつか



 三日前、ヤマザクラの花が咲いた。去年より一週間ほど遅

い。全国のソメイヨシノの開花も遅くて、トンガの火山噴火

の影響が出ているのかなと思う。

 天気予報では何も言わないけれど、フンガ・トンガ=フン

ガ・ハアパイ火山の噴火では成層圏に莫大な量の水蒸気が送

り込まれ、その影響で成層圏が冷えたため「偏西風の蛇行が

起きて、大きな気象の変化が起きる可能性がある」と、気象

学者が言っていたらしい。去年は日本では特に目立った変化

は感じられなかったけれど、今年はどうだろうか? 今年の夏

は猛暑か?冷夏か?まぁ「可能性」なので特に何もないかも

しれない。便利な言葉ですよ「可能性」というのは。どんな

予測・想定を語っても、「可能性」と言っておけば後でどの

ような結果でも言い逃れができるので、学者などは「可能

性」という言葉を頻繁に使う。

 このブログでは「可能性」という言葉はあまり使わないけ

れど、代わりに「・・・と思う」という表現をよく使う。断

定的に言わない為に。

 断定的に言えるような事柄について語っているわけではな

いので、言わないというより「言えない」というのが実情で

すけどね。

 そんなあやふやなことなら始めから黙っていれば良さそう

にも思うけれど、なにぶん自分の意志でやっていることでは

ないのでそういうわけにもいかない。まぁ、あやふやでも中

途半端でも、断定的ではないのがこのブログの良いところだ

と思う。

 誰もわけが分かって生きているわけじゃないんだから、断

定的でない方が、人の「生きるということ」に即しているの

ではないだろうか。


 話が変な方に行きそうなので、サクラの話に戻ることにし

よう。


 ヤマザクラは野生種で、花が咲き、実がなり、種ができ

る。我が家の横のヤマザクラも、鳥が運んできた(らしい)

種から育った。一方、ソメイヨシノは江戸時代に生まれた園

芸品種でオオシマザクラとエドヒガンという桜の雑種だとさ

れている。ソメイヨシノは一代雑種で種ができない。いま日

本中で見られるソメイヨシノは、すべて挿し木や取り木で増

やされたクローンで、あの花は “あだ花” だ。


 その “あだ花” にほとんどの日本人が目を奪われれる、この

頃はサクラ目当てに日本へ来る外国人も多いらしいけど、

開のサクラの、どこか現実離れした夢かうつつのような感じ

は、あの花が “あだ花” であるからかもしれない・・・という

気もする。


 夢かうつつのようなサクラの花と、わたしたちの日々の暮

らしと、どちらが “うつつ” か? そんなことも考えてみたり

する。


 “あだ花” であっても、ソメイヨシノの花は実際に咲いてい

る。けれど、人間のしていることの多くは、アタマの妄想

だ。

 「あいつ、あんなこと言わなくていいだろう😠」とか。

 「あの人、わたしに気があるみたい🥰」とか。

 「このビンテージジーンズ80万円だぜ😎」とか。


 人が自然に目を向けたときに、それを「夢かうつつ」の

ように時折感じるのは、実は逆なのかもしれない。

 普段、現実だと思っている自分たちの行いが妄想で成り立

っていることが、自然の美しさや大きさなどの強い実体感に

よって揺さぶられるのではないだろうか?

 満開のサクラに “夢うつつ” を感じているのではなくて、満

開のサクラを前にして、自分の想いが “夢うつつ” と感じられ

てしまうのではないか? だから時折「満開のサクラはなんだ

か怖い」という人がいるのだろう。


 何が「夢」か?

 何が「うつつ」か?


 サクラを見上げて、感じとってみるのも一興かもしれな

い。

















そういえば、霊雲(りょううん・れいうん)という禅僧は満

開の桃の花を見て悟ったのだった。それを〈霊雲観桃〉と言

う。




2024年3月25日月曜日

無心に・・・



 わが家の横のヤマザクラのつぼみがかなりふくらんでき

いる。あと2~3日で咲くだろう。

 サクラが咲くのは、サクラの力でもサクラの意志でもな

い。この世界のはたらきが、サクラを生かし、育て、花を咲

かせる。サクラ自体は無心だ(と思うけど)。


 この世界のあらゆるものが無心だ。実のところ、わたした

ちも無心だ。なんだかんだとアタマが考えて右往左往してい

るけれど、「無心で “考えている”」というのが真実だ。
 

 わたしたちのアタマがしてみせることには、サクラの花の

ように美しいものもあるけれど、顔をしかめたくなるような

ことも多い。でも、そのどちらもが無心になされることだ。

いや、「無心」によってなされることだ。


 わたしたちが何をするのも、それによって生まれる結果も

「無心」のはたらきによる。わたしたちの働きじゃない。

 わたしたちの前で起こることも、わたしたちが「する」と

いう体裁で起こることも・・・。


 わたしがこういうことをいま書いているのも「無心」のは

たらきによる。

 あなたがいまこれを読んで何かを想うのも「無心」のはた

らきによる。


 “「無心」のはたらき” という考えを受け入れるか受け入れ

ないかも「無心」のはたらきによるので、なんともしようが

ないが、受け入れて「無心」の邪魔をしないようにできるの

なら、それは幸運なことだろう。自分があらゆる評価から解

放されるのだから。


 「無心」のはたらきのなすがままを受け入れれば、たぶん

わたしたちもサクラのような花を咲かせることだろう。安ら

ぎがにじみだすようにしてね。



これはソメイヨシノだけどね




2024年3月24日日曜日

「理想」が怖い



 人間関係について「周りの人が自分の価値観や理想に合わ

なくて悩んでる」って話をちょっと目にして、すぐに「周り

の人のことだけじゃなく、みんな〈 自分の価値観や理想に合

わない “自分”〉にも悩んでるでしょ?」と思った。


 自分が「自分の価値観や理想」に縛られてて気分が悪いも

んだから、周りの人にもその基準を適用して「コイツら何

だ!😮‍💨」って、あたってしまうだけですよ、ほとんどの人間

関係の悩みなんて。

 「自分の価値観や理想」ってそんなに良いものなんでしょ

うか? それが自分に何かしてくれたでしょうか?

 大切にすべきは「価値観や理想」ではなくて、周りの人そ

のものと、自分自身そのものでしょう。


 「理想」っていうのは厄介なものですよ。よっぽど気を付

けていないと人を害する。自分も他人も。

 「理想」って、当然ながらアタマが考えたものだから、気

を付けないとすぐに現実を無視するし、現実を「理想」の為

の踏み台にしてしまう。アタマが悪さをする原因のトップな

んじゃないかと思う。


 アタマは、妄想を生かす為に現実を踏み台にする。とても

酷いことをやっているんだけど、なにぶんモノを考えるのは

アタマの領分なので、酷さは隠蔽されてしまう。そして美辞

麗句で妄想を飾り、現実は重箱の隅を突くように貶める。人

間関係より、自分の中でアタマとの関係を考える方がいい。


 「理想」って自己差別ですよ。今の自分、いまの在り方を

貶めてるんだから。

 ときどき書くけれど、人間にはごく自然な向上心ってもの

がある。「理想」とか「目標」なんかをアタマが持たなくて

も、健全に生きるために無意識に向上しようとするものです

よ。そうして少しずつ何かが自分に備わってゆくことが「成

長」ですよ。本当は「理想」なんていらない。むしろ、邪魔

です。ときとして「死の病」になるほど怖いものです。


 植物を育てているとよく分かるけれど、同じ植物でも少し

環境が違うだけで育ち方が大きく違う。

 日当たり、風通し、ほんのわずかな土の違いで、一方は

10個の花を咲かせて、もう一方は3つしか花を咲かせられ

なかったりするようなことはよくある。それは、それぞれに

その場所で自分のできる最善であって、もしも入れ替えたら

10個の花を咲かせた方も2~3個の花しか咲かせられない

だろう。

 仮に花が自分の理想を持っていて、3つの花しか咲かせら

れない場所で10個の花を咲かせようとしたら、「二兎を追

う者は一兎をも得ず」というように、一つの花も咲かせられ

ないだろうし、もしかしたら枯れてしまうかもしれない

 花は「理想」を持たないだろう。その場所で自分なりの最

善を尽くすだけだろう。


 「よくぞまぁこんなところで」という思いがけない場所で

花に出会うことがある。そういうのを見て「強い!」とか言

う人たちがいるけれど(「ど根性〇〇」なんて言う)、その

花は特に頑張ってるわけではない。「自分が自分をしてい

る」だけだ。私はそういう花に出会うと、「強い」とかでは

なくて「カッコイイ」と感じる。「自分が自分をしている」

その姿が愛おしく思う。

 彼らも、理想を言えば環境の良いところで花をいっぱい咲

かせたいかもしれない。けれどそんなことを考えても始まら

ない。そこで最善を尽くして花を咲かせる。無理せず、自分

としての花を。



どこから来たのか知らないが、セイヨウカラシナ(西洋辛子菜)がこんなところで咲いている。周りには見当たらない
お互い、生きてますね

2024年3月23日土曜日

作用と反作用



 「作用と反作用」。中学の理科の時間で習うと思う。いま

なら小学校でだろうか? よく分からないけど、誰でも習うだ

ろう。「物に力を加えれば、その同じ分だけ力が戻って来

る」というやつ。 これはなにも物理法則だけの話ではなく

て、心理法則でもあるだろう。


 誰かに「バカ」と言ったら「バカ」と言い返されるとかい

うことではなくて、アタマの中で誰かを「バカ」と思った

ら、同時に自分自身をも「バカ」と査定している。


 自分の外へ向けての「攻撃」「否定」は、同時に自分自身

を「攻撃」し「否定」することになる。

 自分の外へ向けての「親切」「受容」は、同時に自分自身

に「親切」であり、自分を受け入れることになる。表面的に

は気付かなくても。


 「他人に厳しく、自分に優しい」みたいな人は結構いて、

そういう人は、他人を否定しながら自分は肯定しているよう

に見えるし、当人もそのつもりでいる。

 けれども、わたしたちのアタマは意外と律儀なもので、他

人を評価する基準を、無意識のうちに自分にも適応してい

る。アタマはダブルスタンダードが苦手です(サイコパス気

質の人間はそのかぎりではないでしょうが)。
 

 “他人に厳しく、自分に優しい人” の場合は、他人を強く否

定するので、自分に対しても強い否定的な思いが無意識下で

生まれます。その為、それを打ち消そうと自分を肯定的に評

価するのですが、やはり無意識下で自分の欺瞞に気付いてい

るために不快になり、その不快感ゆえに他人に攻撃的にな

り、また他者を強く否定するという悪循環に陥ります。そう

いう人は気の毒なもので、基本的にいつも不機嫌です。心か

ら笑うようなことはまずないでしょうね。今度、そういう人

の笑い方を観察してみてください。決して「ワッハッハ!」

と爽快な笑い方はしないでしょう。


 “他人にあまり厳しくない人” の場合は、自分にもあまり厳

しくありませんし、“他人に優しい人” は、自分にも優しい。

表面的にはそう見えないとしてもね。


 世の中というのは、基本的にエゴのせめぎ合いの場ですか

ら、“他人に厳しく” が主流です(表向きはそうでもなくて

も、裏では陰口が絶えなかったりね)。その結果、お互いに

不機嫌をぶつけ合い、そのたびに自分自身の不機嫌を増幅

し、さらに不機嫌をまき散らすということがそこら中で展開

します。救いがありません。

 わたしはできるだけそういうことには巻き込まれずに、そ

ういうのは無しで行きたい。誰でもそうではないですか?


 柔らかく働きかければ柔らかく返ってくる。きつく働きか

ければきつく帰ってくる。外に働きかけたことは自分に返っ

てくる。自分の中に働きかけたことは、跳ね返って外にも働

く・・・。すべきことはあきらかです。


 そして、外から自分に加えられる力も相手に跳ね返る。

 柔らかな力を受け取れば、それは相手に柔らかく戻り、相

手もその人自身の柔らかさを受け取る。それはその人を喜ば

せる。一方、きつい力(攻撃)は受け取らない方がいい。そ

れは相手に跳ね返り、その人自身をさらに不快にする。自分

の力が自分も苦しめているとは気付かずに。そして相手はさ

らにエスカレートする。では、どうすれば受け取らないよう

にできるか? エゴ(自分)を立てなければいい。自分など無

いものとして関わればいい。そうすれば相手からの力は働き

かける対象を失い、跳ね返ることなく虚空に消えてゆく。

 その時、その相手は「攻撃」や「否定」の無意味さを無意

識に感じることになる。同時に、自分に跳ね返るはずであっ

た否定感情を受け取らなくて済む。その経験は、その人を少

しだけ変えるだろう。自分自身と周りの世界に対して、少し

ばかりの肯定感を持つだろう。


 自分がエゴを立てないことが周りも変える。実際の関りも

が少しずつほぐれてゆく。

 世の中のいたるところで跳ね返り、乱れ飛んで傷付け合う

否定のエネルギーが、自分のところを素通りして減衰して消

えてゆく。世の中に対するこんなに大きな貢献はない。もち

ろん、自分に対しても。



 


 

2024年3月20日水曜日

つらかったら逃げろ



 昨日、学校でいじめにあって自殺した子について、学校側

の責任を問う裁判などのニュースが三つも有った。

 学校や行政の対応が問われていて、確かにもう少しできる

ことはあるだろうけど、そういうこと以前に、親や学校が

「つらいことがあったら逃げていい。学校が嫌なら無理して

行かなくていい」となんで言ってあげないのか? すべての子

供に、月に一度そう言葉をかけてから学校というものに送り

出すようにしてあげればいいのに。たかが学校じゃないか。


 こういう言い方は、いじめにあった子の親を非難している

ようだが、私は親の責任は大きいと思っている。

 「子供は学校へ行くもの」という社会の常識を疑わず、

「子供はこうあるべき」という基準に流され、我が子の逃げ

場所を用意してあげていなかったのではないのか?

 個々の事情は分からない。私の指摘が当てはまらないケー

スももちろんあるだろう。けれども、この国ではいまだに硬

直した教育観が子供に大きな圧力を掛けていることは否めな

いだろう(外国より遅れていると言いたいのではない)。


 つらかったら逃げなさい。

 つらかったら逃げればいいのだ。「逃げて来なさい」と言

ってあげればいいのだ。それがなかなかできないのは、社会

から狂った道徳観のようなものを刷り込まれてしまっている

からだ。

 たかが学校ではないか。

 そこが苦しいのなら、その場所、その状況は何かが間違っ

て、ゆがんだ形でエネルギーが滞留しているのだ。そんなと

ころからはすぐに逃げればいいのだ。

 「いつでも逃げて帰って来なさい」

 そう言ってあげろよ。


 子供だけの話ではない。大人だって、つらかったら逃げれ

ばいいのだ。たかが仕事。たかが友達。たかが恋人。たかが

家庭ではないか。

 そうは言っても、自分で働いて暮らしを成り立たせている

のなら、「逃げる」ことで生活の基盤を失うことになりかね

ないし、家庭から逃げることも大きな厄介ごとを生み出しそ

うだ。一筋縄ではいかない。けれども、わたしたちは「つら

かったら逃げる」ということを原則にすべきなんだ。


 「我慢だ」「努力だ」「辛抱だ」「強くなれ」「負ける

な」「逃げるな」・・・。うるさいよ・・・。

 そういう言葉は、本当に人の為に発せられているのか?

 そういう言葉が人の為になるのであれば、その言葉に従っ

ても苦しいのはおかしいんじゃないのか?

 人の為ではなくて、社会の為に、社会に人を組み込むため

に偽装されている言葉ではないのか?


 自分もそう言われてきたから、子供や他の人にもそう言

う。自分がそういう言葉に従って、つらい想いをしてきたこ

とを憶えているはずなのに、自分の感覚よりも、アタマに刷

り込まれた価値観に従う。

 「変だと思いなさいよ」、私はそう思う。


 人は社会を持たなければ生きてゆけない。わたしたちは社

会を作り、維持してゆかなければならない。けれども、それ

は社会の道具として組み込まれることを意味しない。理想論

ではあるけれども、「わたしたちは共同して、自分たちにと

って良い道具としての社会を作らなければならない」という

のは、真っ当なことだろう。

 社会はわたしたちの道具であるべきなのに、実際にはわた

したちは社会の道具になっている面の方が大きい。


 「つらかったら逃げていい」

 誰もがそういう風にしていたら社会が成り立たないかもし

れないが、大半の人が逃げてしまうような社会なら、その社

会はそもそも出来が悪いのだ。だから「つらかったら逃げて

いい」という原則は、良い社会を作る上での指標になる。


 大きな社会のことまでは知らない。そこまで考えるのは誇

大妄想だろう。だけど、学校・職場・家庭・その他の人間関

係、そういう身の丈の社会を「つらかったら逃げていい」と

いう原則で見るのなら、そこには少し余裕が生まれるはず

だ。「たかが〇〇じゃないか」というゆとりが持てるはず

だ。具体的に逃げることができない状況だとしても、「おか

しいのは “ここ” であって、自分じゃない」と考えられる。自

分を非難せずにいられる。

 ただし、一つ気をつけなければならないのは、「おかしい

のはアイツだ」と誰か非難すること。それは自分がその場所

のエネルギーを歪めてしまうことになる。おかしくすること

に加担してしまう。
 

 社会の歪んだエネルギーによって、その場が歪んでいるた

めに、そこにいる人たちも歪んで立っている。それに気付か

ずに・・。けれど、そこで歪ませられずに、真っすぐ立つ人

がいると、それを見て周りが「自分が歪んで立っている」こ

とに気付き始める。それがその場の状況を変えてゆく。


 逃げられないのなら、心の中で逃げる。

 社会とは無関係の、心の空間からその場を見る。

 「ああ、おかしなことやってるな」と。

 けれど、どうしてもダメなら実際に逃げればいいのだ。そ

こにいて命が削られるような思いなら、逃げた方がいいに決

まってる。それでどうなるかわからないけれど、すくなくと

もそこは自分の居場所ではない。


 逃げないで頑張って、それで何が得られるか?

 わずかばかりの金か社会からの賛辞だろうけど、それがい

ったい何だというのか?

 割に合わないことはやめた方がいい。

 子供は特にそうだ。

 子供に逃げ場を与えてあげたいけれど、あいにく私にはそ

ういう才覚がない。ご縁がない。こんなネットの辺境で、ブ

ツブツとひとりごとを言うだけだ。けれど、このひとりごと

が巡り巡ってどこかで誰かを救うかもしれない。その可能性

が無いとは言えない。


 つらかったら逃げろ!